潜水士テキストの最初の版をなくしてしまったと書いたら、親しい友人が見てくれて、自分が持っていたものを送ってくださるという。そのころは、「潜水士テキスト」ではなくて、「潜水士必携」だったという。忘れていた。実物を失くしてしまうと、こんなことまでも、忘れてしまうものなのだ。 旭式で、どうしても忘れられない、大事なことは、これは、グラフィティにも書いたのだが、東京水産大学の潜水実習は、マスク式、それも旭式で始まるということだ。僕の受けた頃の実習はすでにスクーバが主になっていたのだが、スクーバが紹介される1953年まで、そして、そのスクーバの実習が始まる1954年までは、マスク式の潜水が水産大学の潜水実習だった。どのように行われて、どんなものだったのか、詳しくは知らない。1940年代は、日本人が死ぬか生きるかという時代だから、潜水実習の様子は不明である。1950年代になってからだと思うが、このあたりのことを詳しく知りたいが、僕が聞けるとすれば、兄貴分であり探検の師匠だ。白井先輩が4期上級で、お元気なはずだ。なんでも記録する方だったから、多分写真も持っておられるはずだ。千葉県大網に居られるから、行かなくては。
手押しポンプは東亞製
マスク式でも泳いでいる。
こんなミステリー伝説がある。小湊実習場は、火葬場の跡に建てられた。もう、本当によくある話だ。その火葬場の焼くところは、磯で、その場所に大学は、小さな水槽をおく磯根の魚を見せる建物を作った。以後異変があり、そのうちに大きな台風が来て、それは攫われてしまって、失くなった。失くなったが呪は残っていて、1954年度の事故につながる。これは、当時の実習場の主のような職員、古川さんに聴いたはなしだ。 その火葬場跡の前に、大きなプールのような生簀があり、見物客は、餌をやってタイがバチャバチャと餌をとるのを見て喜ぶ。小湊は日蓮上人の生誕の場所で、生誕を祝って、タイが跳ねたという。鯛の浦だ。鯛の浦は船を出して、鯛に餌をやって集まるのを見るのだが、今、2016年はどうなっているだろうか。生簀は、ミニ鯛の浦で、この生簀で、「1953年ディーツ博士が、アクアラングで潜ってみせた。その生簀に並んだ、磯の上に潜水台と呼ばれる、8畳敷ほどのコンクリートの台地があって、ここに手押しポンプを置き、マスクを付けて台から磯に降りて潜水する。僕たちは増殖学科だから、磯根の観察がテーマで、この潜水実習も行われたことなのだろう。当時の水産大学は、漁業科 増殖学科、製造科の三つの学部があり、漁業科は、基本的に船に乗って魚を獲る学部であり、館山に実習場があった。館山での潜水実習は、同じマスク式でも船に乗って、これは、スクリューへの網かかりを切り解くような実習だったのだろう。僕たちの方はサザエでも採って来れば良かったのだろうか。 円形の小湊実習場 一階が水族館
何回かすでに書いているが、小湊実習場で、アクアランクのプレゼンテーションが行われたのが、1953年、その翌年の1954年の潜水実習で、アクアラングを使った二人の学生が死亡している。これは、泳げる学生ならば、アクアラングはあまりにも簡単であり、どのようにして死ぬのかわからなかったのだ。タンク、コンプレッサーなどを購入してからの実習である。1953年から、たったの1年で、どうやって道具がそろえられたのだろう。一応は大学である。空気塞栓のこととか、潜水病のこととか、マスククリアーとか基本的な技術と知識は獲得して、教えてからの実習だったのだろう。しかし、どのようにして人がアクアラングで死ぬかの知識はなかった。それは、2016年の今でも同じ傾向なのだろう。どのようにして死ぬか、基本的な運用は余り系統立てて議論されていない。議論はされても実際に行われはしない。学生の事故は、その時の実習グループで、一番泳ぎの得意な、あるいはすでに素潜りが上手な者に起こる。自分もそれに類する事があり、大学4年次に死んでいたかもしれない。潜水の上手下手、スキルだとかへったくれとかは、事故の可能性とは関係がないのだ。強いて言えば、死ななかった者が上手だ。その時の事故も、実習生の中の一番上手なバディ、実習終了して、海底に引いていたラインを撤収に行って起こった。実習中は、伝馬船が水面に居たのだが、二人を残して伝馬船は戻ってしまった。こいつらならば大丈夫と思ったのだろう。水深は10m以下だったから、空気塞栓だっただろうと、言われている。一人が浮上して、助けを求めていたらしいが、助けが到着する前に、彼も沈んで、ふたりとも亡くなった。 1954年の事故は、従来のようなマスク式潜水の実習であったならば、起こらなかった。起こり得ない事故だった。ホースで結ばれていれば、事故は起こらない。すなわち、典型的なアクアラング事故であり、犠牲者一号だった。僕の恩師が責任者だったから、なおさらなことだったのだが、ホース、、水面との直接コンタクトというのが、僕の潜水の、トラウマになっている。今も同様な事故の可能性が同じように存在している。それを如何に避けるかである。この事故の裁判は、直上に、伝馬船を置いていなかったこと、置けばおけるのに、船を出して置かなかったことについて、管理者の責任が問われた。もしも、この時、直上にボートを置かなかったことが管理責任になったとすれば、それが判例となり、その後の日本のスクーバダイビングはどのようになったのだろうか。これがスクーバダイビングの本質であり、僕の中では解決がついていない。つかないままで一生を終わると思う。①スクーバはコンタクトが無いから事故死がおこる。②コンタクトを付けてしまえばスクーバではない。③コンタクトが無くて、どのように事故を防ぐのか。スクーバダイビングとは、そういうことなのだ。 今の今、はっと気がついた。この時の裁判記録が判例として残っているのではないか。詳細な記録が残っているのではないだろうか。無いだろうと思う。小湊実習場では、学生の遺族が、記念の石碑を建てようとした。学校の許可が降りずに、記念の石を置いたらしい。東京水産大学は、小湊の実習場を去り、館山の坂田に引っ越した。小湊は千葉大学の施設になった。この石が邪魔になったとかで、品川のキャンパス、博物館に置かれていたという。その石は、今はどこかに居なくなった。
こんなミステリー伝説がある。小湊実習場は、火葬場の跡に建てられた。もう、本当によくある話だ。その火葬場の焼くところは、磯で、その場所に大学は、小さな水槽をおく磯根の魚を見せる建物を作った。以後異変があり、そのうちに大きな台風が来て、それは攫われてしまって、失くなった。失くなったが呪は残っていて、1954年度の事故につながる。これは、当時の実習場の主のような職員、古川さんに聴いたはなしだ。 その火葬場跡の前に、大きなプールのような生簀があり、見物客は、餌をやってタイがバチャバチャと餌をとるのを見て喜ぶ。小湊は日蓮上人の生誕の場所で、生誕を祝って、タイが跳ねたという。鯛の浦だ。鯛の浦は船を出して、鯛に餌をやって集まるのを見るのだが、今、2016年はどうなっているだろうか。生簀は、ミニ鯛の浦で、この生簀で、「1953年ディーツ博士が、アクアラングで潜ってみせた。その生簀に並んだ、磯の上に潜水台と呼ばれる、8畳敷ほどのコンクリートの台地があって、ここに手押しポンプを置き、マスクを付けて台から磯に降りて潜水する。僕たちは増殖学科だから、磯根の観察がテーマで、この潜水実習も行われたことなのだろう。当時の水産大学は、漁業科 増殖学科、製造科の三つの学部があり、漁業科は、基本的に船に乗って魚を獲る学部であり、館山に実習場があった。館山での潜水実習は、同じマスク式でも船に乗って、これは、スクリューへの網かかりを切り解くような実習だったのだろう。僕たちの方はサザエでも採って来れば良かったのだろうか。
何回かすでに書いているが、小湊実習場で、アクアランクのプレゼンテーションが行われたのが、1953年、その翌年の1954年の潜水実習で、アクアラングを使った二人の学生が死亡している。これは、泳げる学生ならば、アクアラングはあまりにも簡単であり、どのようにして死ぬのかわからなかったのだ。タンク、コンプレッサーなどを購入してからの実習である。1953年から、たったの1年で、どうやって道具がそろえられたのだろう。一応は大学である。空気塞栓のこととか、潜水病のこととか、マスククリアーとか基本的な技術と知識は獲得して、教えてからの実習だったのだろう。しかし、どのようにして人がアクアラングで死ぬかの知識はなかった。それは、2016年の今でも同じ傾向なのだろう。どのようにして死ぬか、基本的な運用は余り系統立てて議論されていない。議論はされても実際に行われはしない。学生の事故は、その時の実習グループで、一番泳ぎの得意な、あるいはすでに素潜りが上手な者に起こる。自分もそれに類する事があり、大学4年次に死んでいたかもしれない。潜水の上手下手、スキルだとかへったくれとかは、事故の可能性とは関係がないのだ。強いて言えば、死ななかった者が上手だ。その時の事故も、実習生の中の一番上手なバディ、実習終了して、海底に引いていたラインを撤収に行って起こった。実習中は、伝馬船が水面に居たのだが、二人を残して伝馬船は戻ってしまった。こいつらならば大丈夫と思ったのだろう。水深は10m以下だったから、空気塞栓だっただろうと、言われている。一人が浮上して、助けを求めていたらしいが、助けが到着する前に、彼も沈んで、ふたりとも亡くなった。 1954年の事故は、従来のようなマスク式潜水の実習であったならば、起こらなかった。起こり得ない事故だった。ホースで結ばれていれば、事故は起こらない。すなわち、典型的なアクアラング事故であり、犠牲者一号だった。僕の恩師が責任者だったから、なおさらなことだったのだが、ホース、、水面との直接コンタクトというのが、僕の潜水の、トラウマになっている。今も同様な事故の可能性が同じように存在している。それを如何に避けるかである。この事故の裁判は、直上に、伝馬船を置いていなかったこと、置けばおけるのに、船を出して置かなかったことについて、管理者の責任が問われた。もしも、この時、直上にボートを置かなかったことが管理責任になったとすれば、それが判例となり、その後の日本のスクーバダイビングはどのようになったのだろうか。これがスクーバダイビングの本質であり、僕の中では解決がついていない。つかないままで一生を終わると思う。①スクーバはコンタクトが無いから事故死がおこる。②コンタクトを付けてしまえばスクーバではない。③コンタクトが無くて、どのように事故を防ぐのか。スクーバダイビングとは、そういうことなのだ。 今の今、はっと気がついた。この時の裁判記録が判例として残っているのではないか。詳細な記録が残っているのではないだろうか。無いだろうと思う。小湊実習場では、学生の遺族が、記念の石碑を建てようとした。学校の許可が降りずに、記念の石を置いたらしい。東京水産大学は、小湊の実習場を去り、館山の坂田に引っ越した。小湊は千葉大学の施設になった。この石が邪魔になったとかで、品川のキャンパス、博物館に置かれていたという。その石は、今はどこかに居なくなった。