さて、次はウエアラブルカメラだが、その前に、インターバル撮影のことをまず話さなければならない。 まず、最初はタイマーを設計自作した。1970年代のことだ。きっちりと記録しておけば良いのに、いや、記録もあったかも知れない。忘れ、紛失している。記憶が10年刻みになっている。 こういうことって、そのころブログを書いていれば、いやせめてホームページを作っていれば記録が残っている。そういうことなのだが、ログブックも書けない戦闘中だった。でもかなり日記は書いていたのだが、それが見つけられない。
30mmぐらいのアクリルの筒、長さ30cmぐらい、に自分で基盤を作って組み立てた。周波数を数えてCMOSでシグナルを出して、シャッターを切るのだ。僕のエレクトロニクスのこれが頂点だった。そのすぐ後に東海大学の海洋学部でバイオテレメトリーを専攻していた井上孝一がスガ・マリン・メカニックに入社してきて、マッチ箱程度のタイマーを作った。 以後、タイマーによるインターバル撮影はスガ・マリン・メカニックのお家芸になった。 しかし、マッチ箱が僕たちの頂点で、やがて、IC一個、さらには、目に見えないどこか?に進化して行く。エレクトロニクスってそういうことだった。 やがて、複数のカメラを設置してインターバル撮影をするようになった。カメラを設置して撮ることも、いろいろなパターン、動画も静止画も撮った。 カメラそのものが高価、100万単位だったから、2台、3台が限度だった。撮影枚数も長いフィルムは現像代が高いので、36枚撮りに終わっていた。
SEA&SEAのコンデジ 5000とかを入れた水密ケース、こんなふうにして沈めた。善海のSEA&SEA最後のフィルムカメラが2004年、この写真が2005年だ。この2004-2005年がフィルムとデジタルの分水嶺だった?SEA&SEAは何を血迷って、量産型、ニコノスと競うようなフィルムカメラを出したのだろう。夢を追ったのだろうなあと今の僕は思う。僕もフィルムの夢を追った。そのことはまた後で
次にデジタル撮影素子の時代が来た。撮影枚数は飛躍的に増加し、現像代も不要になった。同時にインターバル撮影も安価なコンデジでできるようになり、インターバル撮影の時代が来たと思ったが、意外なことに、インターバルをやるのは、スガ・マリン・メカニックだけだった。 インターバル撮影をやったからと言って、随意契約にはならなかった。競争入札ならば、よけいな調査項目を増やさない方が良い。この傾向は今でも同じことで、それについての批判について、今は脱線しない。 デジタルカメラも安くなり、sea&seaの リコー5000のカメラ、ハウジング、ワイドレンズで20万程度になった。それ以前はインターバルの撮影できるカメラはハウジング混みで100万ぐらいだったから、100万で5台使える。
今、このときに使ったカメラが山になっている。山にできたのは、水産工学研究所の高木さんという研究主幹が使ってくれたからだったが、水産工学研究所では、1000万クラスのタイマーカメラを作って使っていた。このタイマーカメラは、数ヶ月単位でタイマー撮影をするもので、この取り付け取り外しもダイバー仕事になった。取り付けて、数か月後に外しに行く。
大きなタイマーカメラ、ハシゴに付けて、そのハシゴを魚礁に縛って固定した。
この方向をウエアラブルカメラ方向で追っているのが東大の鯉渕先生で、そのうち何とか一緒に研究仕事をしたい。 ともあれ、僕たちのタイマーカメラは、安価、それでも15万ー30万で、撮影時間は2ー3時間単位だった。 その2時間ー3時間単位をスチルのインターバルで切り刻んで撮影するか動画にするかの選択になる。 しかし、2ー3時間の動画カメラを5台設置すれば、10時間から15時間見続けなくてはならない。僕にはできない。 陸上の監視カメラの記録をどのように処理しているのかはまた別のテクノロジーだ。 インターバルのスチルはPC画面の上で一目で見られるように展開できる。 人工魚礁の調査が僕のライフワークだったが、50年、魚を求めて魚の居るところで魚の写真を撮ってきた。インターバル撮影をアトランダムのカメラをおいて撮影すると、人工魚礁にしても、魚のいる部分は限定されていることがわかる。
GoPro、ウエアラブルカメラになっても、ウイング、羽はSEA&SEAコンデジのものを使った。カメラの大きさというよりも、使い勝手が良くなり、価格が十分の一、になった。
縦に4台連結して深い大きい魚礁の中に吊るしている。これは現在
今、日本水中科学協会では、本当のボランティアで人工魚礁の調査、お台場の撮影調査を行っている。金銭的にフリーでいろいろ実験的なことができている。そのあたりにレクリエーション的な調査で役に立つ調査ができるのならば、自分がプロだった時にはボランティアは、競争相手だった。 そのあたりを知り尽くしてバランスをとれた居ればよかったのだが、残念なことに僕はただ単純に相対するものと想定していた。チャンスはあったのに。 とにかく、そのあたりに鍵がある。 よく脱線する。書いていて連想から枝がでるのだ。これは、ブログでは、自分的には大事なこととして、書き留めておく必要があると思っている。 読んでくださっている方も、自分なりに脱線、連想してくださっているのだろうと期待している。
30mmぐらいのアクリルの筒、長さ30cmぐらい、に自分で基盤を作って組み立てた。周波数を数えてCMOSでシグナルを出して、シャッターを切るのだ。僕のエレクトロニクスのこれが頂点だった。そのすぐ後に東海大学の海洋学部でバイオテレメトリーを専攻していた井上孝一がスガ・マリン・メカニックに入社してきて、マッチ箱程度のタイマーを作った。 以後、タイマーによるインターバル撮影はスガ・マリン・メカニックのお家芸になった。 しかし、マッチ箱が僕たちの頂点で、やがて、IC一個、さらには、目に見えないどこか?に進化して行く。エレクトロニクスってそういうことだった。 やがて、複数のカメラを設置してインターバル撮影をするようになった。カメラを設置して撮ることも、いろいろなパターン、動画も静止画も撮った。 カメラそのものが高価、100万単位だったから、2台、3台が限度だった。撮影枚数も長いフィルムは現像代が高いので、36枚撮りに終わっていた。
今、このときに使ったカメラが山になっている。山にできたのは、水産工学研究所の高木さんという研究主幹が使ってくれたからだったが、水産工学研究所では、1000万クラスのタイマーカメラを作って使っていた。このタイマーカメラは、数ヶ月単位でタイマー撮影をするもので、この取り付け取り外しもダイバー仕事になった。取り付けて、数か月後に外しに行く。
今、日本水中科学協会では、本当のボランティアで人工魚礁の調査、お台場の撮影調査を行っている。金銭的にフリーでいろいろ実験的なことができている。そのあたりにレクリエーション的な調査で役に立つ調査ができるのならば、自分がプロだった時にはボランティアは、競争相手だった。 そのあたりを知り尽くしてバランスをとれた居ればよかったのだが、残念なことに僕はただ単純に相対するものと想定していた。チャンスはあったのに。 とにかく、そのあたりに鍵がある。 よく脱線する。書いていて連想から枝がでるのだ。これは、ブログでは、自分的には大事なこととして、書き留めておく必要があると思っている。 読んでくださっている方も、自分なりに脱線、連想してくださっているのだろうと期待している。