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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0816 沿岸漁業とスポーツダイビング 3

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 このテーマまだ始まったばかりだがずいぶん大きくなるようだ。途切れることがないようにしたい。連続すると、多分あんまり面白くないのだろうと、面白い話題があると、そちらに移ってしまうのだ。後でブログを整理すると、まとまったテーマでかいたもののブロクのほうが自分にやくにたっている。いや、読者に面白くなくても良いとは割り切れないが、出来るだけコースをはずれないようにしよう。ここしばらくブログはこのテーマと、ダイビングしたとき、旅をしたときとして雑なことは、フェイスブックなどに流すようにしたい。  房総
 真鶴では、アクアラングお断りという声があがったそのころからその後 房総では?     海女漁が確立しているところでは、さすがにレジャーダイバーが密漁することはない。 しかし、意識してやる密漁は別である。アワビのあるところ密漁は絶えない。 食糧難から引き継いだ初期には密漁も罪の意識はほとんどなかったようだ。ダイビング界のの大先達であった菅原久一さんも、酔っぱらうと、自分が密漁で生きていた時代のことを自慢する。もちろん現在進行形ではなかったが、そういう暮らしもダイバーの一つのパターンかとおもってしまう。そして、大なり小なり漁業者自身も何らかの形での密漁をしている。たいていの漁には規則があるのだが、漁師は意図して規則を破る。自分の海、自分の畑ならば、よいと思ってしまうのだ。 漁業者に船を出してもらうと、「ここにアワビがいるからとらっしぇいよ。」などと言われると素人のレジャーダイバーは、いただいてしまう。魚突きでもそうだ。地元の人が、良いと言えば、良いのだと解釈してしまう。 僕たちがやった神津島、八丈島、伊豆大島でのスピアフィッシング大会も、地元の後援、地元の承諾を得て行われた。しかし、僕たちに許可を与えた組合長が再選されなかったりしたことがあり、大会は無理だとわかった。笑うかもしれないが、今でも水中銃での魚突きは地元の了解を得て行われている。地元が許可すれば何でも良いのだが、大会は無理だ。実は、地元の許可などという者はなく、規則によって定められているのだが、このことについても後で漁業調整規則のところで説明する。
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              スガ・マリンメカニックの調査チーム

 なお、先ほどのべた自分の船に乗せたお客に禁止されていることを許可する権限などない。そして、そのことは、必ず誰かがどこかで見ている。自分の会社、スガ・マリン・メカニックは、房総半島をホームグラウンドの一つとしていたが、漁師がどんなに薦めても海産物は手にするな。籠に入れておみやげとして渡されるには良いと内規で決めていた。 しかし、地元の了解というのは、今も昔も事実上成立している。 海女漁の中心とも言える、千葉県外房、白浜にMさんという方がいた。もと漁師かとおもうが、自分だけで、生産組合というのを作ってしまった。この組合で船をだしてもらえば、魚突きOKだ。アワビも見つからなければ良かったのではないか。ここのお世話になって、大きなモロコを房総で穫った人も多いかと思う。  IOP 伊豆海洋公園 のオープンは1964年、東京オリンピックの年だが、真鶴でダイバーお断りのサインがでているのに、いや、でているからこそかもしれないが、魚突きのメッカになった。なにしろ、皇太子殿下(現在の平成天皇)が、おいでになり、スピアフィッシングが天覧に供せられた。という信じられないようなことがあった。ハゼの研究などで益田さんと親交があったからだと思われる。さすがに、このことは正史には掲載されていないが、1964年と1967年の間のことである。 しかし、真鶴の漁師がいうように、鉄砲や銛を持って泳げば、確実に魚は逃げていく。別の場所に移動する。  日本潜水会 1967年 1967年、スピアフィッシング大会に集まっていた僕の仲間で、ダイビングの指導を今後熱心にやって行こう、つまりインストラクターを作ろうとする者、後藤道夫のところに集まったNHKのカメラマンなどを集めて、潜水指導者の合宿が行われた。この合宿参加者を中心としてダイビングの免許を出そうという計画である。  それ以前、前出の「どるふぃん」の日本潜水科学協会も、潜水の講習を大きな目的の一つとしていて、講習終了の免許を出そうという動きもあった。これらについては、ニッポン潜水グラフィティにも書いているし、また、もっと詳しいことを書こうと考えているのでここではジャンプする。  一週間の合宿で、トレーニングプログラムの実践、学科のテキスト作り、今後のダイビング界のあり方などについてのディベートなどが行われた。そのとき、NHKカメラマンの河野から、スピアフィッシングをやめようと言う動議がだされた。1962年の真鶴半島でのお断りの動き、海洋公園もめっきり魚が少なくなって、益田さんは、撮影と魚の採集と飼育に姿勢が向いていた。おさまらないのは、スピアフィッシング大会で集まり、スピアフィッシングがより盛んになることを期待して集まった面々だった。 しかし、漁業調整規則という規則で、発射装置、あるいは銛をつかって水中めがねで魚を突くことは、非漁民の遊漁としては認められていない。規則で認められていないことの是非を論じることはまちがいではないか。今で言えばコンプライアンスだ。
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               鶴曜一郎 故人 写真は海外のブルーオリンピうの時、らしい。

 集まったメンバーの中心に後藤道夫のところにいる鶴耀一郎がいた。かれは素潜りの魚突きの世界大会、ブルーオリンピックに出場して国際的な選手になっている。彼も魚突きはできなくなる。結局彼は奄美大島で魚突き漁師 ウミンチューになる。 東京、関東はまだ銃をカメラに持ち換えるダイバーが多かった。名古屋、関西、九州は、「なにを関東はたばくれたことを言っているのだ。」魚突きはやめない。絶対にやめない姿勢だった。 しかし、潜水指導、免許については、合同したカードを出そうということになった。  ブルーオリンピック 年表を見ているとおもしろい。目下のところ、ニッポン潜水グラフィティ の巻末の年表が一番おもしろい。 その年表を見ると、1969年、日本潜水技術振興協会発足、雑誌 マリンダイビング 創刊 がある。 日本潜水技術振興協会は、どうしてもスピアフィッシングがやりたい、日本潜水界を除く、関西、名古屋、四国が時の衆議院議員、小宮山重四郎を冠にして、ほぼ全省庁の潜水に関係のあるセクション、潜水を研究の道具として使っている公的機関を集合させて結成した。加入していないのは、スピアフィッシングに反対する日本潜水会、関東学生潜水連盟だった。 日本潜水技術振興協会は、スピアフィッシングを公認のものにするため、1970年、八丈島で国際大会、ブルーオリンピックを開催する。ただし、この大会では水中銃は使用できず、銛を使い、素潜りで行った。来日した外国選手は、水中銃は使うことができず、顔見知りの鶴耀一郎も来ていない。奇異にかんじただろう。そしてそのときに事故が発生して、日本代表の田島君が亡くなってしまう。 事故が遠因だったのか、業界が思うようにまとまらないことが原因だったのかわからないが1971年、社団法人日本潜水技術振興協会は 消える。

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