海女:資源管理型漁業 いつも、海女と書くときに、男の海士はどうする、と自問する。房総では、1970年代男の海士にスクーバダイビングをおしえた。漁獲の為ではなく、種苗を入れたりとか、資源管理のためだった。各地域別の海女の男女比率のデータ(現状:海女サミットというのがあるので、底にはデータがあるかもしれない)は見たことがない。やはり女性の方が優れているのだろうか。いや、女にはたらかせて、寝て暮らすのが男の理想、そんなことはないが、海女の理想は男の君臨すること?脱線している。 とにかく、ここでは男の海士も含めて、海女と書いてしまうことにする。 海女漁は、資源管理を厳しくやったきた、そして、現在も続いている漁として、最古の歴史をもっている。貝塚は、海女が穫った貝の残骸も混じっているにちがいない。 黒いネオプレーンのウエットスーツが普及し始めた1960年代のはじめころ、僕は東亜潜水機で働いていて、海女にウエットスーツを売り込む行商をした。 海女の本場は、真珠の三重、ヌードで泳ぐ能登半島舳倉、そして房総、北限の岩手種市、だろうが、全国何処でも、潜って磯ものの漁ができるところは、人数の差はあるが、海女漁は成立している。 ウエットスーツで暖かく潜れれば、身体も楽だし、漁獲も倍増するだろう。 僕は、東亜潜水のお得意さんであるヘルメットダイバーの紹介で三重県の御座に行った。海女さんを集めて説明すると、もうすでにウエットスーツのことは黒いゴムの人形「ダッコちゃん」になぞらえて、知識はあり、説明は不要で、導入すべきか、しないか、議論が沸騰している状態だった。 ウエットスーツ導入派で僕を呼んだ海女さんは、スタイルがよくて、潜水は上手、反対するグループは肉付きがよくて寒さに強い。寒さがイーブンになったら、漁獲高の地位が逆転してしまう。結局この地域はウエットスーツの導入は見送られた。 新しい道具、新しい衣で漁獲が増大するようなものは、導入するかどうか、議論が沸騰する。そして、その結論は部落毎にちがう。僕のホームであり海女の知人が多い外房では、部落によって、ウエットスーツに差がある。ある部落では上は臍まで、下は膝上何センチとか、その上にきるジャージも全員同じものを着る。ある部落では、フィンの使用が認められるがある部落ではウイズアウトフィンで、衣装も伝統的な白い木綿で、とか細かく決められている。それは、現在、2016年でも変わっていないが、フィンを新しく導入の時は大変だったのだろう。
外房 千倉部落の海女さん フィンなし
ゲージを当てて、漁獲サイズかどうか調べている。
資源管理には二つの目標がある。一つは乱獲で資源が枯渇しないこと、もう一つは実力に応じた公平な分配である。 効率的に考えるならば、年間に穫ってよい資源量を決定して、それを組合員の数でわり、その量に達したら、その人の漁は終了する。早めに稼いでしまって、後は他の漁に回ることができ、年間の稼ぎは多くなる。オーストラリアのアワビ漁は、潜水機を使ってする漁であり、この方式だった。これは、男性型、マッチョな解決策だ。 しかし、それでは、上手な人も、下手な人も公平に割ってしまうことになり、達成感も競争の喜びもなくなってしまう。ルールの中で競うスポーツ的な喜び、生き甲斐がなくなってしまう。 海女漁はスポーツでもあるのだ、漁獲、収入も競うというスポーツである。そのルールを決めるのだから、大変である。千葉県外房の海女には、海女組合というのが別組織的にあり、組合長がいて取り仕切っている。以前、千倉の海女組合長の植木さんという方ととても、親しくしてもらっていた。植木さんの教えは、「欲をかくな」で、岩の奥にアワビが3枚いても、2枚であきらめる。アワビは逃げ足が早いので、もういちど、同じ場所に行ってもまずいない。次に残しておくとともに、自分の命を救う。「おれの代になって、まだ事故はない」というのが自慢だった。そう、事故も起こる。命もかかっているのだ。 海女漁との付き合いはながく、エピソードを語れば際限もない。書きたいのだが、今回のテーマから外れてしまう。 地域社会での富の公平な分配、その中でスポーツ的に競うことができ、資源も枯渇しない。自主的な運営も確立されている。 そんな海に、1950年代のスクーバダイバーは、息こらえもせず、長時間潜れる潜水機で入り込んでいったのだ。 房総ではヘルメット式潜水機による、海女が潜れない深さでの機械根と呼ばれる大原沖での潜水漁業があったから、明らかな、意図的な密漁の他では、スクーバが入り込む余地はなかったが、真鶴では大きな問題になった。 スクーバによるアワビ・サザエ取り 第二次大戦そして、戦後日本は食糧難で、統制経済であり、食料は配給制度だった。配給制度を正しく守っていて餓死した裁判官もいた。規則破り、すなわち闇 をやらなければ、生産者ではない都会生活者は生きていられなかったのだ。食料を生産する生産者、農家は強者だった。漁家は農家ほど縄張りがきっちりしてはいなかったが、共同漁業権が設定されて、縄張りはあった。 縄張りの中は、漁業者にとっては農家の畑とおなじであり、共同ではあったが組合の私有地のようなものである。 すでに述べたように同じダイバーである海女漁は厳格なルールのもとで行われている。 一方、1950年代にスクーバダイビングを始めた者たちは、都会生活者であり、食糧難、闇経済の中で育ってきた。 だから、食べ物を失敬する事に悪の意識はなかった。僕たちの世代の子供たちは、畑でトマトを盗んで食べるあじを知っている。隣の家の柿を盗むのも普通のことであった。トマトは農薬の普及によって、幸せではなくなってしまったが。 海女漁が行われている地域では、トマトを盗むようなわけにはいかないが、海女がいない、江ノ島、藤沢、千葉県では金谷などが、1950-1960年代にレジャーダイバーがアワビ、サザエ、イセエビなどをとっていた、1950年代はまだまだ牧歌的だったのだ。 現在でも、潜ってアワビやサザエを採って良いところはどこでしょうかという質問をうける。ばかばかしいようだが、これは、とても重要なことなのだ。漁業者の側に、区域を決めて、アワビ・サザエを放して釣り堀的に撮らせたらという発想が、1960年以来今でもある。試験場の技師なども含めて、その実現性について相談を受けたことがある。水産庁で考えないではなかった。 ドルフィンの記事この項をかくために、1957年から1965年の日本潜水科学協会の機関誌「どるふぃん」をざっとだけど、見直してみた。終始一貫して、アワビ、サザエを穫ってよいとはかかれていない。アワビ研究の泰斗であった猪野峻先生が会長になられていたのでとうぜんではあるが。 しかし、密漁を意識した密漁は、やくざがらみのプロもいて、逮捕されることは、毎年1-2度は新聞に出る。意識しない、一個ぐらいならというキャンプ密漁は、今日でも続いている。 1950年代の「どるふぃん」では、スピアフィッシングは、むしろ奨励ている。 そして、1962年夏の号で、「アクアラング潜水お断り」と言う座談会が特集された。その頃、のスクーバダイビングのメッカとなっていた真鶴の漁業組合長、漁師及び海女さん10数名、小田原にある神奈川県水産指導所の所長、真鶴にダイビングセンターを開業している後藤道夫、潜水科学協会の猪野会長、司会の田辺理事である。 組合員と海女さんは、アクアラングは来てほしくない。どうしてもというならば、せめて銛や水中銃は持たないで欲しい。ダイバー側は、何でも入漁料を払えば、許される場をつくれば、とかの提案をしたりしているが、もちろん結論などでないが、はっきりと、銛も水中銃も否定されている。そしてこれは、1980年の真鶴潜水全面禁止(後で述べる)につながっていく。 この座談会でもそうなのだが、県の漁業調整規則では水中をマスクで見ながら魚を突いてはいけないと決められていることについて、わかっていて無視しているのか、わかっていないのか、明確ではない。猪野先生だけが、規則でいけないと言うことなのだから、できないのだといわれている。 自分のことを少しだけ書こう。少しだけ、というのはすでに自分の「ニッポン潜水グラフィテイ」でこのあたりのことは、述べている。まだごらんになっていなければ、読んでほしい。 僕も、手に銛を持ち素潜りで魚を穫ることでダイビングをはじめた。 東亜潜水機では、水中銃を作って売った。 そして、水中射撃連盟を結成して魚突きの全国大会を神津島でやる。 射撃連盟は日本水中スポーツ連盟となって、八丈島でそして、伊豆大島で魚突き大会をやる。 自分のギャングエージだと思っている。 そのころ、房総では?
資源管理には二つの目標がある。一つは乱獲で資源が枯渇しないこと、もう一つは実力に応じた公平な分配である。 効率的に考えるならば、年間に穫ってよい資源量を決定して、それを組合員の数でわり、その量に達したら、その人の漁は終了する。早めに稼いでしまって、後は他の漁に回ることができ、年間の稼ぎは多くなる。オーストラリアのアワビ漁は、潜水機を使ってする漁であり、この方式だった。これは、男性型、マッチョな解決策だ。 しかし、それでは、上手な人も、下手な人も公平に割ってしまうことになり、達成感も競争の喜びもなくなってしまう。ルールの中で競うスポーツ的な喜び、生き甲斐がなくなってしまう。 海女漁はスポーツでもあるのだ、漁獲、収入も競うというスポーツである。そのルールを決めるのだから、大変である。千葉県外房の海女には、海女組合というのが別組織的にあり、組合長がいて取り仕切っている。以前、千倉の海女組合長の植木さんという方ととても、親しくしてもらっていた。植木さんの教えは、「欲をかくな」で、岩の奥にアワビが3枚いても、2枚であきらめる。アワビは逃げ足が早いので、もういちど、同じ場所に行ってもまずいない。次に残しておくとともに、自分の命を救う。「おれの代になって、まだ事故はない」というのが自慢だった。そう、事故も起こる。命もかかっているのだ。