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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0809 海で暮らすなら

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 豊潮丸から戻ったときは、具合が良かった。今、具合が悪い。具合とはストレスのことだ。 「島で暮らすなら~ダイバ船にお乗り」という歌があって、昔々、宴席で歌った。この歌を教えてくれたのは、なんと、ミナミスポーツの社長だった南 彰さんだった。それから、南社長はスポーツ小売り業界の雄に登り詰め、失速した。息子さんが、跡を次いでいると思うけど、お元気だろうか?思いでがたくさんある。こっちは親しい友のつもりだった。  この歌、岡晴夫という歌手の昭和10年代のヒットソングで、ユーチューブにある。 そのダイバ船。昭和10年ごろの減圧と潜水病事情は、長く潜っていれば潜水病になるから、できるだけ早く浮上して、後から「ふかし」をやる。今の、船上減圧と似ていないこともないが、それでも、どんどん潜水病になった。命をすり減らして、親方に搾取されても、親方にはなりたくない。ダイバで居たい。稼ぐ金は、酒と女に使い果たし、ぼろぼろになって、死んで行く。きっと、幸せな人生だったのだろう。僕も「須賀さんがダイバーをやめれば、会社は成功する」といわれたが、ダイバーをやめなかった。幸い減圧症にはかかっていない、きちんと減圧停止したからだ。  念のためにネットで調べたら歌は、「パラオ恋しや」で「島で暮らすなら」ではなくて「海で暮らすなら」だった。僕が教えてもらったのは「島で暮らすなら、ヤップ島におじゃれ」だった。たぶん、ヤップ島のだれかが、替え歌にしたのだろう。「おじゃれ」とは、平安時代の言葉だが、八丈島でよく聞いた言葉だ。流人の言葉だったのかもしれない。ところで、いまの八丈で「おじゃれ」と言ってくれるのだろうか。
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                  大学一年の八丈島遠征

 僕が、初めて八丈に行った大学1年のとき、先輩に教えられた。昔は八丈にいくと、港に草履が並べてある。どれかを選ぶと、その草履の持ち主が島にいるときの妻になる。これは、流人が、江戸をでるときに伝えられたことなのだろうか。「それも、悪くはないな」男と女なんてそんなものだ、と、島に流されていったのだろうか。  今、八丈島には、南社長と「ダイバーの歌」を一緒に手拍子で歌ったミナミの店員(後の本店長)斉藤さんが居て、ダイブサービスの田中さんの奥さんのお父さんだという。その斉藤さんが店長の時、大学生の潮美がアルバイトでスキンダイビング洋品売場にいた。彼女がいると、よく売れたのだ、という。  八丈に行きたいけれど計画がない。 マリンダイビングフェアで、田中さんに出会い、立ち話をしていたら誰かに割り込まれた。 計画を立てようかな。 https://www.youtube.com/watch?v=rFnpXCyQoNY 「パラオ恋しや」は、昭和の太平洋戦争前、南洋が日本の植民地だったころの歌だ。ネットで「パラオ恋いしや:岡晴夫」ですぐにでてくるから、聞いてほしい。 あの時代に、南洋でダイバーをやれるなら潜水病で死んでも良い、と僕は思っただろうか。きっとそんな風に思っただろう。そして、あまり長生きはしなかっただろう。 なお、木曜島で白蝶貝を採ったダイバー船は南洋で船を整えて南下したらしい。潜水病になる前の若いダイバーはきっと輝いていたのだろう。

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