安全とか危険だとか、何時も考え続けている。ダイビングをする人は、みな、そうだろう。今の気持ちとしては、正面切って安全とか危険とかを書くのは面映ゆい。そんなことを書ける義理か?と思ったりもする。 「安全について」は、何度も何度も書いているが、その都度、変わっている。年齢、そのとき置かれていた状況、やっているダイビングのそれぞれによって変動する。 このごろはまっている「宇宙士官学校:鷹見一幸」に、こんな一節があり、書き留めた。「危険のあるところに危険を見なければ、それは破滅的なクライシスを招く。だが、危険のないところに危険を見るものは効率こそ悪いが、クライシスは招かない。不効率は習熟でリカバリーできるが、クライシスはリカバリーできない。」ちょっとピントがダイビングからはズレているが、常に危険を見る。想定する。ということについての、良い表現だとおもう。それで、危険について書く気になった。 ところで、その危険って、なんなのだろう。 どいうことなのだろう。安全と対になっていることは、わかる。危険でなければ、安全である。でも、それでは答えにならない。具体的な細部が必要。 「安全」といいながら、危険のことをかたっているのではないか、そこで、レトリックが毎度逆転している。いまさら、これを修復しようなどとは、思っても仕方がない。しかし、ダイビングには、こういう危険があり、それを避けるには、こうすれば良い、と、言い直した方がわかりやすい。少なくとも、「ダイビングは安全か?」などというおかしな言い回しはされなくなる。 人も、会社も組織も変わる。その変遷を見ていくのが歴史であるが、時の流れでもある。1980年代初頭、PADIは、「ダイビングは安全です。」というコピーをつかった。後に、「ダイビングは冒険です。」にかわった。僕は「ダイビングは、探検であり、冒険ではいけない」と考えていた。そんな風に言ったりする人は、今も多い。でも、僕は、グラフィティを書いたあたりから、「ダイビングは冒険」になった。 冒険も探検も「そこにある危険を認知して、それを避けて行動すること」には、変わりはない。探検は学術的な要素があり、目標として、報告書を出す。もちろん冒険も報告書があった方が良いけれど、それは冒険の報告書、ドキュメンタリーであったり、旅行記で良い。まあ、この辺の区別は微妙ではあるが、その典型が南極探検のスコットとアムンゼンで、アムンゼンも探検家ではあるが、南極に到達することを何よりも優先して、速攻で南極にスコットに先駆けて到達してしまった。しかも、後出しジャンケンだった。スコットは、学術にこだわり、南極にアムンゼンの旗印を確認し、失意のうちに、帰途遭難死する。 スコットの悲劇的な南極探検隊に参加した、当時24歳の動物学者チェリー・ガラードの「世界最悪の旅」は、広く読まれていて、「探検とは知的情熱の肉体的表現である」という言葉は、多くの探検を目指す若者の座右の銘になった。 僕は「ダイビングは冒険」だけれど、いつも探検を志している。調査とは探検に他ならない。 人工魚礁調査は、レクリエーショナル・エキスペディション(PADI風の言葉だな)をめざしている。 ところで、危険とは何か?について、から離れてしまった。ダイビングの危険とは、「死」である。共通しているスポーツは登山である。しかし、その危険率は、登山にくらべて、一桁、あるいは二桁低い。そして、登山のように天候の急変という不可抗力に近い要因はない。レクリエーションダイビングでは、ほとんどすべて、自分が悪いのだ。作業潜水では、命令、指令、指示があるので、責任は折半される。 とんでもないガイドダイバーにあたったとしても、それを選んだのは自分なのだ。遺族は訴えて、対価を得ることができるが、ダイビングの危険が死である以上、賠償金は自分が使うことはできない。 従って、危険をどう逃れるか、リカバリーをどうするかは個人の問題になる。 僕の場合、危険のリカバリーは、もはや、習熟は期待できない。フィジカルな強さも期待できない。メンタルもダブルトラックの思考が難しい。チームワークと水面とのコンタクトに頼る他ない。弱者の思考である。でも、安全を考えるとき、弱者の思考が、キー、なのだ。
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