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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0703 僕とダイビング事故

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僕とダイビング事故 というタイトルで書き始めているけれど、難しいテーマだし、なかなか書けない。
 ふと、昔書いて本にしようと持っていた原稿を見た。多分2000年ごろに書いた原稿だ。結局本にはしなかった。その理由も危ないテーマだったからだが、今見直してみると結構悪くない。書けなくなったらこれを引っ張り出して、出せば良いか。そして、今書いているものとミックスすれば、
 とにかく、このブログを下書きにして、ダイビング事故をなるべく少なくするための本を作ろうとしている。

※ご存知のとおり、今の潮美は、月刊ダイバーの僕の原稿の構成をしている。

7-2.娘・潮美への手紙

7-2-1 娘がダイビングを始めた

昭和57年(1982年)娘の潮美が法政大学に入学した。
90m潜水実験の前の年に生まれた娘である。
後年、彼女がニュースステーションの水中レポーターをして活躍をするようになり、幼少の時から英才教育的に潜水を教えていたのだろうと、よく人に言われることになった。 
自然の中で育ってもらいたい、自然と親しくする人になってもらいたいと、夏休みには山村の自然スクールに三年連続して行かせた。身体が弱かったから強い身体になってもらいたいと、スイミングスクールにも通わせた。しかし、スクーバダイビングをやらせようとは思わなかった。高等学校では剣道に熱中していたから、大学では合気道をやらせたかった。それが大学のダイビングクラブに入りたいと言う。
ダイビングをする事には反対だった。潮美はよく会社に訪ねて来ていたから、私の会社のダイバーたちも顔を見知っている。「止めさせた方がいいですよ」と言うのが彼等の意見だった。チーフダイバーの河合君は「引き上げた遺体の写真でも見せれば、きっと思いとどまりますよ」とまでいう。

 しかし、潜水は私の家業である。うれしくないこともなかった。父親の夢の一つは娘と一緒に仕事をすることだ。
潮美が大学に入るこの年、1982年で、私は潜水をはじめてから二十八年になっていた。もう少しで危なかったと胸をなで下ろすようなニヤミスは、三年に一度ぐらいの割合で起こっていたが、それらの危険のほとんどは、自分の知識不足、経験不足で起こっている。  
二十八年のキャリアで経験不足とは、ずいぶん頭が悪いと思われるかも知れないが、潜水とはそういうものだ。海は千変万化するし、潜水の形態、活動の範囲は年毎に広がって行く。第一、人が生きていると言うことは、いつでも新しい経験をすることになるわけで、すべての事柄に対して予測ができれば、それはもはや神に近い。
 とにかく二十八年、毎日潜水のことだけを考えてすごして来たわけだから、娘がやろうとしているくらいの潜水ならば、ほぼ完全な経験と知識を持っていると思っていた。実はそうではなく、大きな穴があったことを後に思い知らされることになるのだが。
安全とは、知識と経験の積み重ねで得られる。とにかく、自分の経験と知識を娘に伝えたい。口で話したのでは、右から左へ聞き流されてしまうかも知れない。手紙を書いて、見てもらったらどうだろう、自分の娘だけではなく、他人の息子や娘にも役立つように、機会があれば、どこかで発表しようとも思った。出来れば、娘と私の往復書簡にしたいとも思った。


 明日、豊潮丸に乗る予定で、今広島まで来て、広島のホテルから発信する。

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