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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0701 僕とダイビング事故-2

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 僕とダイビング事故ー2
 卒業してスクーバダイビングを仕事とするようになり、潜水器製造会社、東亜潜水機でスクーバ機材を売るようになった。そのころは、潜水科学協会が現在のCカード講習と同じ程度の講習をやっていたが、スクーバダイバーの増加にこの講習が間に合わないようになってきた。都内にダイビングショップがいくつか生まれ、そのショップが講習も行い、修了者を集めてクラブを作るようになった。

  ダイビングショップ、ダイビングクラブがやるダイビングの目的はスピアフィッシング、それと、やってはいけないことだと知ってはいたが、アワビ、サザエ、伊勢エビなどを穫る、つまり漁師の側からみれば泥棒である。
 敗戦国の国民であった僕たちは、食糧難の時代に育った。高価なスクーバ機材を買えば、その元をとらなければならない。
 記憶に残っているのは、潜水科学協会の会員で、かなりのお金持ちであった人が、江ノ島の海でサザエを穫りすぎて、沈没して亡くなった。つまり、誰でもやっていたのだ。もちろん、そんな時代が長く続くわけもなく、まず、親友、後藤道夫がエアーサービスをはじめていた、真鶴でダイビング禁止となった。後藤さんはウエットスーツの販売で活路を開いたが、遊びに行っていたダイバーは困った。
 それでもしぶとく、物取りは漁師の目を盗んで、スピアフィッシングは、漁業者の了解を得れば、船をつかうことで、なにがしかのお金を落とすこともあり、やっても良いのだと考えていた。実は今でもこの考え方は四国、九州方面では通用しているようだ。

 東亜の代理店第一号だったダイビングショップ、東京アクアラングサービスは、スピアフィッシング専門店だった。
 スピアフィッシングも磯物泥棒もバディシステムは成立しない。物取りの方はチームプレーで組織的にやる海賊もいたが、スピアフィッシングは、一部の例外を除いて、単独行動である。エントリーと、場合によっては水中で巡り会って一緒にエキジットすることもあるが、原則として水中では一人である。人よりも先に魚を見つけて撃たなければ魚は逃げる。
 東京アクアラングサービスのクラブでも事故死が起こった。クラブ員がそろって、悲しみ、在りし日の彼を偲ぶ文集をだしたりしたが、訴えたりすることはなかった。
 もし、残圧が、20で、大きな回遊魚が回ってきたら、撃つだろう。そして深みに引き込まれて、空気が無くなりそうになったとして、水中銃を手放すダイバーはハンターじゃない。
 そんなことを言ってはいたが、ダイビングの事故はドラスチックである。朝、おみやげの魚を待っていろと元気に出かけたお父さんが、夜には冷たくなって戻ってくる。まだ、ダイビングの指導組織はなく、ダイバーの集まりはクラブ単位であった。同じクラブでつきあっていれば、家族とも知り合う。訴えられることは無くても、精神的には耐えられない。耐えられないことの裏返しの強がりもあった。
 僕は、堀切菖蒲園のスクラップ屋さんの息子で東亜潜水機の同僚である石崎とセブンシーアクアラングクラブという魚突きクラブをはじめた。そのクラブ員が、千葉県金谷でアワビをとりすぎて沈没して亡くなった。腰のベルトにスカリをくくりつけていて沈んだものだ。もちろん、だれを訴えることもない。
 石崎は、「須賀さん、俺もこれで一人前になったよ。」と強がりを言っていたが、まもなくクラブもダイビングもやめた。賠償の追求はないが、友人を自分がダイビングクラブを始めたために殺したという思いにはた耐えられなかったのだろう。

1967年、それまで、正式なダイビング講習をやっていた日本潜水科学協会がスポーツダイビングから手を引いて、海底居住計画を目指す海中開発技術協会になった。講習をやる組織がない。僕たちは自分たちの指導団体である日本潜水会を作った。講習の受け皿を作るとともに事故の対策をみんなでやろうとする目的もあった。むしろその方が強かったかもしれない。ダイバーは一匹狼だが、死亡事故を一人で背負うほどは強くない。群れなければ耐えられなかったのだ。

 日本潜水会誕生のことは、月刊ダイバーのグラフィティにも書いたが、一つの成果として、スピアフィッシングをやめたが、これは派生的なことであって、集いあった重要な理由は、安全の確立、さらに、事故が起こったときに組織でかばいあうことだった。ほぼ時を同じくして、関西潜水連盟、中部日本潜水連盟が誕生した。この三つの団体は、紆余曲折があったが、やがて全日本潜水連盟という一つの連盟をつくることになる。
 日本潜水会として、安全の確立のためには、とにかくなにがあっても溺れない、また溺れる仲間を助けることができるダイバーになることが一番大事だと考えた。泳ぐこと、そして素潜りで潜ることが基本だ。まだBC.はない。ライフジャケットはあったが、泳ぐ抵抗になる。タンクを脱ぎ捨て、ウエイトを捨てれば、ウエットスーツを着たダイバーは沈まない。
僕たちの考え出した泳ぐトレーニング種目には、参加していたNHKのカメラマングループによって、「地獄の特訓」を意味する地獄の・・・・というニックネームがつけられた。
 「地獄のネックレス」とは、5キロのウエイトをネックレスにすること、「地獄鍋」とはは、5キロのウエイトを持ってたち泳ぎをすること、「座頭市地獄旅」とは、伊豆海洋公園の50mプールで、マスクスノーケルなし、普通装備のタンク、ウエイトをつけて、プールを周回して泳ぐ。マスクがないから座頭市だ。5m間隔でスタートして3周する。追い抜くときだけ内側を通れる。一人に追い抜かれると1周プラスになる。5人ずつでやるから、5人に抜かれると8周になる。スピードと耐久力の練習だった。もちろん、レスキュートレーニングもこれに準じた。今でもその名残は、水中スポーツ大会のレスキューレースに残っている。意識を失っているダイバー、あるいは意識を取り戻しても、溺水したら、一秒を争って陸地にあげなければ死んでしまう。
 ただし、このハードな練習はクラブのリーダーであるべき1級ダイバー(今のダイブマスターだろうか)とインストラクターで、一般ダイバーは今のCカードと大差はない2級だった。ただ、その2級は、指導員が見て、もう一人前だから、海に行っても良いよという印だったから、一人前と判断できるまで、認定証はださない。スクーバダイビングは、見込みがなくて止めるか、一人前になるかしかない。一人前にならないで、止めないで続ければ危ない。だから、誰に教えられたダイバーか?ということは、資格条件として重要だった。たとえば須賀が認定者である二級ダイバーが溺れれば、あいつはなにを教えているのだということになる。

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