ダイビングログをダイビングを始めた時から付けていればよかった。1954年からのすごい記録になった。
もちろんつけていなかった。ログブックなんてものはなかった。あってもつけなかっただろう。
ニッポン潜水グラフィティを書いた時は困った。なにを参考にしたかというと、親友の後藤道夫が書いていた月報だ。毎月の出来事を、いまの月間予定表の日記のように一升になにかしら書いている。1年12ヶ月で12升だ。これだけのことで、記憶がいつ頃のことだったのかおもいだされた。
1955年、日本のダイビング講習第一回目が江東楽天地(錦糸町)のプールで行われた。いまは、遠い昔にこのプールはなくなっている。
その後、ここのダイビング講習で事故が起こって、ここでの講習は行われなくなった。この事故の詳細はわからない。
その「ニッポン潜水グラフィティ」で年表を作ったので、今はだいたいのことはわかる。
毎月単位で一ます(区画)でいいから何か書いておくことを勧める。いや最近ダイバーはみんなダイビングログを書くから、それがランドマークになって、だいたいのことはわかるだろう。
一度だけ三日坊主ではなくて、三日ログをつけたことがある。昭和58年だから、1983年のことだ。
そのころ全日本潜水連盟でログブックを作った。
今のような一回一ページのログではなくて、横に一覧表的に書いていく飛行機のログのような形にした。見開きで2ページで10回の潜水が書ける。一年に1冊ぐらいで書いて行かれる。とてもよいログだと思う。そのログブックに5回、5本分だけ書いた。
それを今みてみよう。
1983年10月17日、島根県の美保が関だから、島根半島だ。魚礁の調査に行った。東京から車で走っていったから、20時間はかかっているだろう。美保が関から島根半島の日本海側に抜ける道は細い道で、軽四輪の道だ。バンだったから、雨が降ったら抜けられないような感じだった。バディは誰だったか書いていない。書けばよかったが、たぶん中川だったと思う。思い出すことがあるのだ。島根半島の海側でポイントは書いていない。書く欄がない。一日かかって到着して、民宿に泊まった。大谷さんという宿だった。家に入ってみて驚いた。古いのだ。柱が太くて黒光りしている。給仕に来たのは若い奥さんのようだった。この家は何年ぐらい経っているのか聞いてみた。「300年といわれています。」仰天したが、その後も島根県とか山口県とか京都府とかの日本海沿岸に泊まると数百年の家が結構ある。能登半島では、平家の落人が建てたという民宿に泊まった。
島根の日本海側は、マダイがよくとれるところで、マダイの姿造りのお刺身がでた。おいしかったが、ん!中川がタイの目玉を食べている。みているうちに、頭の身は全部食べてしまって、頭蓋骨になった。奥さんが膳を下げに来て、呆然とタイの頭蓋骨を見ている。たぶん、お吸い物か何かにするつもりだったのだと思う。中川と旅をして、この手の話は枚挙の暇がない。とから列島の悪石島では、、、摩周湖の弟子屈で吹雪に遭ったときには、、、西表では、、とか、
潜水は、10リットル2本を背負って、潜った水深は52m、潜水時間は6分だ。片道12時間の運転をして、6分の勝負だ。
年が空けて、2月28日には水戸の射爆場跡に潜っている。潜水の回数がこんなに少ないわけがない。たぶん、印象の深いダイビングだけを書いていたのだろう。もちろん書いたもの以外は覚えていない。
3月6日には、やはり美保が関に、田島雅彦と来ている。彼は深海ダイバーで対馬のナヒモフで飽和潜水をやっている。おしいことに、癌で命を落としてしまった。この日は、雪で、潜水は45mで潜水時間は15分だ。続いて5月7日には、同じ場所にきて、42mに午前12分、午後10分、2回潜水している。この日の波高は2mだった。
これだけの記載でいろいろと思い出す。
そして、この人工魚礁の潜水がすべて40mを越していて、空気の潜水だ。潜水時間、潜りはじめて浮上にかかるまでの時間が全部15分以内だ。もちろん、垂直潜降、垂直浮上だ。僕たちがやっていた調査の深い潜水とは、このようなパターンだった。
規則が改正になり40m以上は混合ガス潜水でなければできなくなった。
たった五回坊主のダイビングログでこれだけのことを思い出す。このまま続ければよかったのだが、ちょうどそのころは僕がわりと克明な日記を書いている。どうも、日記とログが一緒に書けない。どちらかでよいとおもってしまうのだ。
次にログを書き始めたのは、2000年からだ。21世紀に入ったので、ログを書き始めたのだろう。
もうこのころは、ログブックは指導団体のドル箱になっていた。
一回のダイビングで、一枚だっから、どんどん消費する。カードよりログを見せないと信頼されないくらい、カードの信用がなくなった。その指導団体がログブックを売る。生涯学習だから、悪いことではない。それに、前に述べたように、ログの効用は大きい。
僕は、さすがに全日本潜水連盟の今は改善?された団体的ログブックはつかわなかった。悪い理事長だ。
エクセルで、一回のダイビングを一行とした。
自分的には、これが一番よかった。
2008年まで、8年間続いた。2006年にブログを始めたのだが、それほど頻繁には更新しなかった。2008年ごろ隔日ぐらいに更新して、ダイビングをしたときには必ずそのダイビングについて書くようになってログブックはやめてしまった。
振り返ってみるとログとブログは別のものだ。ブログも検索できるが、ダイビングの記録だけを調べようとするときは不便だ。両方、ログをもっと簡略にしても良いから、ログもつけておくべきだったかな、思う。
もちろんつけていなかった。ログブックなんてものはなかった。あってもつけなかっただろう。
ニッポン潜水グラフィティを書いた時は困った。なにを参考にしたかというと、親友の後藤道夫が書いていた月報だ。毎月の出来事を、いまの月間予定表の日記のように一升になにかしら書いている。1年12ヶ月で12升だ。これだけのことで、記憶がいつ頃のことだったのかおもいだされた。
1955年、日本のダイビング講習第一回目が江東楽天地(錦糸町)のプールで行われた。いまは、遠い昔にこのプールはなくなっている。
その後、ここのダイビング講習で事故が起こって、ここでの講習は行われなくなった。この事故の詳細はわからない。
その「ニッポン潜水グラフィティ」で年表を作ったので、今はだいたいのことはわかる。
毎月単位で一ます(区画)でいいから何か書いておくことを勧める。いや最近ダイバーはみんなダイビングログを書くから、それがランドマークになって、だいたいのことはわかるだろう。
一度だけ三日坊主ではなくて、三日ログをつけたことがある。昭和58年だから、1983年のことだ。
そのころ全日本潜水連盟でログブックを作った。
今のような一回一ページのログではなくて、横に一覧表的に書いていく飛行機のログのような形にした。見開きで2ページで10回の潜水が書ける。一年に1冊ぐらいで書いて行かれる。とてもよいログだと思う。そのログブックに5回、5本分だけ書いた。
それを今みてみよう。
1983年10月17日、島根県の美保が関だから、島根半島だ。魚礁の調査に行った。東京から車で走っていったから、20時間はかかっているだろう。美保が関から島根半島の日本海側に抜ける道は細い道で、軽四輪の道だ。バンだったから、雨が降ったら抜けられないような感じだった。バディは誰だったか書いていない。書けばよかったが、たぶん中川だったと思う。思い出すことがあるのだ。島根半島の海側でポイントは書いていない。書く欄がない。一日かかって到着して、民宿に泊まった。大谷さんという宿だった。家に入ってみて驚いた。古いのだ。柱が太くて黒光りしている。給仕に来たのは若い奥さんのようだった。この家は何年ぐらい経っているのか聞いてみた。「300年といわれています。」仰天したが、その後も島根県とか山口県とか京都府とかの日本海沿岸に泊まると数百年の家が結構ある。能登半島では、平家の落人が建てたという民宿に泊まった。
島根の日本海側は、マダイがよくとれるところで、マダイの姿造りのお刺身がでた。おいしかったが、ん!中川がタイの目玉を食べている。みているうちに、頭の身は全部食べてしまって、頭蓋骨になった。奥さんが膳を下げに来て、呆然とタイの頭蓋骨を見ている。たぶん、お吸い物か何かにするつもりだったのだと思う。中川と旅をして、この手の話は枚挙の暇がない。とから列島の悪石島では、、、摩周湖の弟子屈で吹雪に遭ったときには、、、西表では、、とか、
潜水は、10リットル2本を背負って、潜った水深は52m、潜水時間は6分だ。片道12時間の運転をして、6分の勝負だ。
年が空けて、2月28日には水戸の射爆場跡に潜っている。潜水の回数がこんなに少ないわけがない。たぶん、印象の深いダイビングだけを書いていたのだろう。もちろん書いたもの以外は覚えていない。
3月6日には、やはり美保が関に、田島雅彦と来ている。彼は深海ダイバーで対馬のナヒモフで飽和潜水をやっている。おしいことに、癌で命を落としてしまった。この日は、雪で、潜水は45mで潜水時間は15分だ。続いて5月7日には、同じ場所にきて、42mに午前12分、午後10分、2回潜水している。この日の波高は2mだった。
これだけの記載でいろいろと思い出す。
そして、この人工魚礁の潜水がすべて40mを越していて、空気の潜水だ。潜水時間、潜りはじめて浮上にかかるまでの時間が全部15分以内だ。もちろん、垂直潜降、垂直浮上だ。僕たちがやっていた調査の深い潜水とは、このようなパターンだった。
規則が改正になり40m以上は混合ガス潜水でなければできなくなった。
たった五回坊主のダイビングログでこれだけのことを思い出す。このまま続ければよかったのだが、ちょうどそのころは僕がわりと克明な日記を書いている。どうも、日記とログが一緒に書けない。どちらかでよいとおもってしまうのだ。
次にログを書き始めたのは、2000年からだ。21世紀に入ったので、ログを書き始めたのだろう。
もうこのころは、ログブックは指導団体のドル箱になっていた。
一回のダイビングで、一枚だっから、どんどん消費する。カードよりログを見せないと信頼されないくらい、カードの信用がなくなった。その指導団体がログブックを売る。生涯学習だから、悪いことではない。それに、前に述べたように、ログの効用は大きい。
僕は、さすがに全日本潜水連盟の今は改善?された団体的ログブックはつかわなかった。悪い理事長だ。
エクセルで、一回のダイビングを一行とした。
自分的には、これが一番よかった。
2008年まで、8年間続いた。2006年にブログを始めたのだが、それほど頻繁には更新しなかった。2008年ごろ隔日ぐらいに更新して、ダイビングをしたときには必ずそのダイビングについて書くようになってログブックはやめてしまった。
振り返ってみるとログとブログは別のものだ。ブログも検索できるが、ダイビングの記録だけを調べようとするときは不便だ。両方、ログをもっと簡略にしても良いから、ログもつけておくべきだったかな、思う。