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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0510危険と 冒険について

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  何かを書く度に危険と安全、そして冒険と探検について考える。
 スキンダイビング・セフティでも同じ、いや、特に危険と安全について、そして冒険について考えた。4人の共著者で、海洋大学准教授の千足先生は、多分標準的な考えとして、危険は遠ざけなければ行けない。冒険でも探検でも、常に安全を指向する。というだろう。学生の海洋実習を長らく担当されてきているから、とにかく危険は避ける方向だろう。藤本さんも、同じく東京海洋大学の准教授だから、危険は避ける方向だろう。スクーバダイビングもスキンダイビングも人間が生存できない水中にはまりこんで行くわけだから、そこに危険があることは確実で、一般的に言えば、できるだけこれを避ける。つまり冒険は避けるべきだというところだろう。
 フリーダイビングについて、いろいろな危険回避のための道具立て(システム)を確実にして、日常のトレーニングを繰り返しての活動だから、何も考えないで、危険に足を踏み込んでいる、スキンダイビングやスクーバダイビングよりもむしろ安全なのだ、と岡本美鈴は言うのかとおもった。僕との対談で、彼女は言う。本が出ないのに、中身を公表してしまうことは、どうかな、と思うけれど。根幹の部分だし、そして彼女の言葉がとても良いと思うので、あえて載せてしまう。まあ、予告編というのも、この世にはあるから良いだろう。
「須賀)本当に生命のギリギリまで極めようとするフリーダイビングを追求する意味はなんだろう。?
美鈴)上手く表現するのは難しいのですが、この競技は様々な事を学ばせてくれる「師匠」のような存在です。
最近の自分はフリーダイビングを競技としても人生としても「冒険」として楽しんでいると思っています。
冒険というと「危険行為や成功の見込みのないことを敢えてすること」という人もいますが。私にとっての「冒険」は一か八かのチャレンジではなく「成功する準備を重ねた上でのチャレンジ」という意味です。
須賀)生還することが何よりも重要な、目標。
美鈴)フリーダイビングは自分の息だけで素潜りの深さや距離、時間を競うスポーツで、例えば海の競技では、自分が潜れそうな深度を予め申告し当日はその長さにセットされたガイドロープに沿って潜るんですね。そこで今の自分を越えるために日頃から準備して、潜り、タグを取り、しっかり浮上する。
自分がどこまで深く潜れるのか知りたい、この下に広がる海底の景色や水圧の感覚はどうなんだろう?という原始的な好奇心から始まって、トレーニングなど準備のプロセスも含めて、このすべてが「冒険」になっています。」
僕の言いたいこと、いつも考えていることを、ぼくの表現よりも上手に言いあらわしている。
それでも本当にフリーダイビングは危険なスポーツだと思う。危険だからこそ、真剣に考え、トレーニングして準備を重ねて、生命を救うシステムを工夫して、装備して、還ることを目標とする。自分が今の状態で帰れる深さ、を目標として、設定してチャレンジする。
僕はフリーダイビングとスキンダイビングについて、その差を例えて、カーレースと日常の運転と考えてみた。しかし、全くちがう。フリーダイビングでは、危険の在処を身体の内側に見ている。同じく、美鈴の書いた部分に、身体の声を聞け!という言葉があった。まっすぐに身体をのばして、深みに潜降しながら、身体の内側に意識を集中して、身体の声が、上がれと言ったならば、直ちにターンして水面にもどる。

僕も深く潜ることを生涯のテーマにしていて、ニッポン潜水グラフィティでは、27歳の時に、100mを目指す潜水をした。そして、今月刊ダイバーに連載中の 続ニッポン潜水グラフィティでは、60歳の時に還暦記念の100m潜水をした時のことを書いている。もう、そのころは、混合ガスを使って、100m潜ることなど、日常の業務、とはいえないまでも、別に新記録でもなんでもなくなっていた。60歳の時には、危険は身体の中にあった。高血圧症だった。身体の内側との勝負だった。高血圧症で、潜水中止を勧告されて、日常生活と100m潜水が直結した身体の内側との勝負になった。
今、80歳になり、80mを潜ろうとしている。このことも月刊ダイバーの連載のラストシーンにしたいと思っているけれど、準備はまだまだで、連載の集結に間に合うかどうかわからない。

さて、1964年の潜水をテレビが放送した、その題名が「命綱を降ろせ」だった。僕は潜水とは命綱にたよって安全を確保するものだと思っている。命綱を離してしまえば、ディープダイビングは、一か八かの勝負になってしまう。フリーダイビングのコンスタントウエイト、垂直に潜る競技では、ガイドライン(命綱)を目標の深度まで下ろして、そのガイドラインと自分とを結ぶラニヤードを使う。もしものことがあれば、ガイドラインもダイバーがぶら下がったまま一括して引き上げてしまう。1964年の時にも、僕と館石さんはガイドラインに沿って潜り、もしものことがあったら、命綱と一緒に揚げてもらう算段だった。しかし、僕の場合はその揚げてもらうシステムが不備デアリ、洗練されていなかったために、引き上げることは出来ず、自力で這い上がった。

僕の潜水も、コンセプトとしては、フリーダイビングと同様に生命の維持は船の上の安全システム(フリーダイビングでは、カウンターバラストシステムに頼る。このシステムも洗練された命綱と考えることができる。)にかかっていた。
冒険というのは、その時点で困難と思われることを、出来る手段のすべてを尽くし、その上で目標を達成して、戻ってくる事を言うのだ。全てはパーフェクトではあり得ないので、それでも事故死者がでる。危険と安全を天秤の両側に乗せて、安全に傾くように、安全のための手段を片側に置く。安全の側に多くを乗せて、安全に大きく傾けるようにする。それでも、危険は片側にあるわけだから、安全の手段が抜け落ちた時に危険になる。

次に冒険と探検だが、冒険は危険だけど、探検ならば良いという人もいる。僕も長らく、ニッポン潜水グラフィティを書くまで、そう思ってきた。だから、探検が冒険になってしまってはいけないなどと書いている。探検と冒険の違いは、探検には生きて還ることはもちろんだが、その上に、そこに何があり、どうなっていたかのデータを収集しなければならないことが目標に加わる。無目的な冒険よりも危険が大きくなる。
僕は学生時代から、チェリー・ガラードの「世界最悪の旅」、スコット探検隊のことを書いたものを愛読していた。「世界最悪の旅」というタイトルはいただけない。「スコット探検隊の悲劇」とするべきだなどと思っていたが、この本は南極を目指して、帰路に遭難して、全員が死亡する事実を書いたものだ。このスコット探検隊と、同時に、ナンセンが南極を目指し、一歩先んじてしまう。そして、生還する。この差は何処にあったかというとナンセンは、目標を南極点到達という一点に絞った冒険的要素が強かったのに、スコット探検隊は、様々な調査を行い、記録しなければならなかった。探検的要素が強かったための遅れが全員の生命を奪った。探検の方が、未知の記録というモチベーションが高いのでより危険なのだ。
慎重に計画を立てた探検と、行き当たりばったりの冒険とはどちらが危険かといえば、計画のない冒険はより危険だろう。
探検は周到に計画され、冒険がいい加減な計画であれば、これは往々にしてそうなるのだが、冒険の方が危険である。冒険と探検の区別は、実際にはできにくい。ただ、探検とは、冒険プラスアルファであり天秤が危険の方に傾く。同一条件ならば、探検の方が危険である。

岡本美鈴は、今回のバハマでの競技会で92mと自己ベストを更新した。冒険に成功したのだ。「おめでとう。」

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