自分と減圧表(症)
ダイビング業界、ダイビング関係者は減圧症、減圧表について非常に熱心だ。今度高気圧障害防止規則が改訂になり、これについても議論百出である。
ぼくは、ダイビングの安全について、とにかくすべてが運用(やり方)にかかっているという姿勢を固持している。減圧症も運用の失敗によって起こる。空気が無くなって急浮上するとか、減圧表(ダイブコンピューター)の使い方にかかっていると思う。
これを前提として、自分と減圧表(症)との関わりを自分のダイビングの発展、時系列で考えてみよう。ぼくが減圧症になったのは一回だけ、60歳を記念する100m潜水だった。しかし、これも船上減圧の再圧チャンバーをでたら、症状は消えてしまったから、減圧症に罹患したとはいえない。
船上減圧の原理は、減圧症にすでにかかっていて、症状がでないか、でても僅かのうちに、その場で再圧治療してしまおうということだから、予定通りといっても別にわるくはない。ぼくは減圧症については、全勝しており、一敗もしていない。半ばはラッキーだっただけだから、威張ることもできないが、そのラッキーも含めて、減圧症グラフィティだ。
大学時代の減圧表は米国海軍標準減圧表のたしか1943年版だった。この表で、繰り返し潜水、2回目の潜水は、実際の潜水時間を2倍に考えて表を引くものだった。三回目の潜水は3倍というわけには行かないので、やらなかった。教室にボンベは3セットしかなかったし、実習場のコンプレッサーも空気を120以上に充填すると時間効率がわるいから、3回の潜水は不可能に近かった。これは、現在の広島大学の練習船豊潮丸でも同様で、減圧症にかかることは不可能に近い。潜水事故といえば、エア切れの溺水か、息をとめての空気塞栓だった。
やがて、1952年版の米国海軍標準減圧表が入手できて、これは、以後改訂はくりかえされているが、現在のものと、使う仕組みはおなじであり、繰り返し潜水記号を使って2回目、三回目の潜水をすることができた。
その米国海軍の減圧表も絶対的なものではなく、3%の罹患率があると教えられた。この3%というのは生物学的な許容誤差であり、そして、なったとしても軽度のものであり、一晩寝て、なおらなかったら、梨本先生(当時の医科歯科大学の先生で、僕達に潜水病の講義をしてくれた。)に相談しろというものだった。
卒業して東亜潜水機に入社した。当時のスクーバ潜水の目的、目標の多くはスピアフィッシングだった。これは、人よりも早く海底に到達して魚を射ち、大物を撮れば、すぐに浮上して、船に上げる。もしも、空気が少なくなっている時に射てば、まっすぐに上がらなければ、空気が無くなって溺死する。急潜降、急浮上が日常の潜水だったが、魚突きの達人で重い減圧症になった人のうわさは聞いたことがない。スクーバダイバーで重度の減圧症になるのは、定置網のダイバー、工事ダイバーが主だった。だから、魚突きも潜水時間は短く、潜水深度も20m前後までだったからだと思う。なるべく上の方にいて、空気を節約し、魚を見つけた時、あるいは、魚の居る穴を見つけた時だけ、20mを超えるような潜水だった。それでも、軽度の減圧症は、魚突きの仲間でも、2-3例あり、肩の痛みに泣き叫んだとか言われたが、再圧タンクに入って、治療できていた。
1962年、高気圧障害防止規則ができて、潜水士の講習が小田原であった。この時に、現在2014年に改正されることになり消える減圧表が発表された。米国海軍の表で引いた数値とそれほど変わらないので、スポーツダイバーは、これまで通りに米国海軍を使用して、実際には潜水士の表を使って潜ることもなかったが、潜水工事会社の潜水士は、最近に至るまで、比較的厳格にこの表を使って潜水していた。そして、この表を厳格に守っていて、重度の減圧症になったという話をほとんど聞いたことがない。たいていの減圧症は、米国海軍にしろ、潜水士の表にしろ、これを守らない状況で発生している。すなわち、3%の罹患率であり、罹っても重度にはならないという結果はキープされていたと思われる。だからこそ、50年以上もこの表を使って、作業現場からはさほどの苦情もなく、推移したのだと思う。
ただ、悩まされたのは、修正時間の別表3で、定規を使って線を引かなくてはならず、到底現場で使えるものではなかった。この表は計算尺をモディファイしたものであり、これを元に計算尺を作れば良いわけで、旭潜水研究所がこの計算尺を売りだしていた。この別表3は、この会社の社長の佐藤さんが、この表を作ったことに関わりがあったので、計算尺を売るためではなかったのかと勘ぐったりした。
続く
ダイビング業界、ダイビング関係者は減圧症、減圧表について非常に熱心だ。今度高気圧障害防止規則が改訂になり、これについても議論百出である。
ぼくは、ダイビングの安全について、とにかくすべてが運用(やり方)にかかっているという姿勢を固持している。減圧症も運用の失敗によって起こる。空気が無くなって急浮上するとか、減圧表(ダイブコンピューター)の使い方にかかっていると思う。
これを前提として、自分と減圧表(症)との関わりを自分のダイビングの発展、時系列で考えてみよう。ぼくが減圧症になったのは一回だけ、60歳を記念する100m潜水だった。しかし、これも船上減圧の再圧チャンバーをでたら、症状は消えてしまったから、減圧症に罹患したとはいえない。
船上減圧の原理は、減圧症にすでにかかっていて、症状がでないか、でても僅かのうちに、その場で再圧治療してしまおうということだから、予定通りといっても別にわるくはない。ぼくは減圧症については、全勝しており、一敗もしていない。半ばはラッキーだっただけだから、威張ることもできないが、そのラッキーも含めて、減圧症グラフィティだ。
大学時代の減圧表は米国海軍標準減圧表のたしか1943年版だった。この表で、繰り返し潜水、2回目の潜水は、実際の潜水時間を2倍に考えて表を引くものだった。三回目の潜水は3倍というわけには行かないので、やらなかった。教室にボンベは3セットしかなかったし、実習場のコンプレッサーも空気を120以上に充填すると時間効率がわるいから、3回の潜水は不可能に近かった。これは、現在の広島大学の練習船豊潮丸でも同様で、減圧症にかかることは不可能に近い。潜水事故といえば、エア切れの溺水か、息をとめての空気塞栓だった。
やがて、1952年版の米国海軍標準減圧表が入手できて、これは、以後改訂はくりかえされているが、現在のものと、使う仕組みはおなじであり、繰り返し潜水記号を使って2回目、三回目の潜水をすることができた。
その米国海軍の減圧表も絶対的なものではなく、3%の罹患率があると教えられた。この3%というのは生物学的な許容誤差であり、そして、なったとしても軽度のものであり、一晩寝て、なおらなかったら、梨本先生(当時の医科歯科大学の先生で、僕達に潜水病の講義をしてくれた。)に相談しろというものだった。
卒業して東亜潜水機に入社した。当時のスクーバ潜水の目的、目標の多くはスピアフィッシングだった。これは、人よりも早く海底に到達して魚を射ち、大物を撮れば、すぐに浮上して、船に上げる。もしも、空気が少なくなっている時に射てば、まっすぐに上がらなければ、空気が無くなって溺死する。急潜降、急浮上が日常の潜水だったが、魚突きの達人で重い減圧症になった人のうわさは聞いたことがない。スクーバダイバーで重度の減圧症になるのは、定置網のダイバー、工事ダイバーが主だった。だから、魚突きも潜水時間は短く、潜水深度も20m前後までだったからだと思う。なるべく上の方にいて、空気を節約し、魚を見つけた時、あるいは、魚の居る穴を見つけた時だけ、20mを超えるような潜水だった。それでも、軽度の減圧症は、魚突きの仲間でも、2-3例あり、肩の痛みに泣き叫んだとか言われたが、再圧タンクに入って、治療できていた。
1962年、高気圧障害防止規則ができて、潜水士の講習が小田原であった。この時に、現在2014年に改正されることになり消える減圧表が発表された。米国海軍の表で引いた数値とそれほど変わらないので、スポーツダイバーは、これまで通りに米国海軍を使用して、実際には潜水士の表を使って潜ることもなかったが、潜水工事会社の潜水士は、最近に至るまで、比較的厳格にこの表を使って潜水していた。そして、この表を厳格に守っていて、重度の減圧症になったという話をほとんど聞いたことがない。たいていの減圧症は、米国海軍にしろ、潜水士の表にしろ、これを守らない状況で発生している。すなわち、3%の罹患率であり、罹っても重度にはならないという結果はキープされていたと思われる。だからこそ、50年以上もこの表を使って、作業現場からはさほどの苦情もなく、推移したのだと思う。
ただ、悩まされたのは、修正時間の別表3で、定規を使って線を引かなくてはならず、到底現場で使えるものではなかった。この表は計算尺をモディファイしたものであり、これを元に計算尺を作れば良いわけで、旭潜水研究所がこの計算尺を売りだしていた。この別表3は、この会社の社長の佐藤さんが、この表を作ったことに関わりがあったので、計算尺を売るためではなかったのかと勘ぐったりした。
続く