月刊ダイバーの連載、原稿を送った。1986年、僕が51歳、第三コーナーを回って、鞭を入れた時だ。僕は競馬に詳しいわけではない。何もわからないけれど、多分そういうことだろうと思う。
ちょうどそのころ日記を書いていたので、記憶を克明によみがえらせることができる。グラフィティは、現在の時点から振り返って、昔を懐かしむ物語だから、時というフィルターで濾されて、嫌なこと、辛かったこと、苦しいことは消えている。日記を見ると、それが全部思い起こされる。だから、面白い。冒険ストーリーとしてもおもしろ。だから悩んでしまった。しかし、雑誌の原稿は限りがある。
数日前、1986年に起こったこと、やったことを時系列にそって、このブログにのせた。それを全部書くわけには行かない。およそ、一回が5000字だ。本当のことを言うと、1986年を二つに分けて、後半は伊豆大島の噴火と、それにまつわる潜水についてで1回にしたかった。しかし、写真がない。噴火の伊豆大島での出来事は、イメージとして、今でも鮮烈に頭のなかに残っている。自分が撮ったカットも思い起こしことができる。もちろん、このイメージも時というフィルターで濾し取られているから、本当とはちかうかもしれないが、とにかく覚えていて、イメージとして思い出すこともできる。
しかし、そのイメージを筆にすることはできるけれど、絵として再現する事はできない。絵、写真がないから、1986年をひとまとめにするほかなかった。
昔と今と違うところは、今は、日常の生活の中でも、写真を大量に撮ることだ。ぶんかというものが発展することと、人が日常に撮る写真の量は、比例する。その写真の撮り方、使い方も、その量にしたがって変化している。その今のセンスで昔のことを書こうとする。写真を一枚も使わずに筆の力で表現してゆく文学もあるが、僕も望みとしては、筆の力だけで、表現したいと思わないでもないが、この連載のコンセプトが写真を使うことになっている約束だ。
これから写真事務所に行って写真をさがす。もはや、何度も何度も探した果てだから、もう見つかりはしないだろうが、やってみる。
ちょうどそのころ日記を書いていたので、記憶を克明によみがえらせることができる。グラフィティは、現在の時点から振り返って、昔を懐かしむ物語だから、時というフィルターで濾されて、嫌なこと、辛かったこと、苦しいことは消えている。日記を見ると、それが全部思い起こされる。だから、面白い。冒険ストーリーとしてもおもしろ。だから悩んでしまった。しかし、雑誌の原稿は限りがある。
数日前、1986年に起こったこと、やったことを時系列にそって、このブログにのせた。それを全部書くわけには行かない。およそ、一回が5000字だ。本当のことを言うと、1986年を二つに分けて、後半は伊豆大島の噴火と、それにまつわる潜水についてで1回にしたかった。しかし、写真がない。噴火の伊豆大島での出来事は、イメージとして、今でも鮮烈に頭のなかに残っている。自分が撮ったカットも思い起こしことができる。もちろん、このイメージも時というフィルターで濾し取られているから、本当とはちかうかもしれないが、とにかく覚えていて、イメージとして思い出すこともできる。
しかし、そのイメージを筆にすることはできるけれど、絵として再現する事はできない。絵、写真がないから、1986年をひとまとめにするほかなかった。
昔と今と違うところは、今は、日常の生活の中でも、写真を大量に撮ることだ。ぶんかというものが発展することと、人が日常に撮る写真の量は、比例する。その写真の撮り方、使い方も、その量にしたがって変化している。その今のセンスで昔のことを書こうとする。写真を一枚も使わずに筆の力で表現してゆく文学もあるが、僕も望みとしては、筆の力だけで、表現したいと思わないでもないが、この連載のコンセプトが写真を使うことになっている約束だ。
これから写真事務所に行って写真をさがす。もはや、何度も何度も探した果てだから、もう見つかりはしないだろうが、やってみる。