伏龍については2010年にもブログで書いたことがある。そのころと今とで、少し考えが違っているし、今度と調べたこともあり、もう一度書き直す。
「海軍伏龍特攻隊」光文社NF文庫 の著者である門奈鷹一郎さんのお話の会があり、それを聞きに藤沢まで行った。2010年のことである。門奈さんは伏龍の実際の体験者である。
友人である、パパラギの武本さんが主催する講演会である。武本さんは、PADIのダイビングショップチェーンを大々的に展開している人で、江ノ島でスノーケリングを積極的に進めても居る。スノーケリングのシンポジュウムを僕が計画したときにお話をしてもらって、以後、親しくなった。
僕とは生き方も考え方も違うけれど、尊敬できる商売人である。商売人であるけれど、社会に何か貢献しようという気持ちも持っておられて、このような会をやる。そして、その会も商売につなげてしまうところがすごい。
一度は門奈さんにお目にかかっておきたかったし、技術的なこと、当時の人間関係などについても、お聞きしたいこともあったのだが、講演を聴いた印象では、ほとんどが本にすでに書かれていたことだった。僕の聞きたかったこと、酸素中毒は本当に無かったのだろうか、などは、あまり関心もないらしく、ご存知無いようだった。酸素中毒でばたばた倒れるようなことは、やはり無かったらしい。
門奈さんと、伏龍の模型、そして武本さん。
この模型は、現在久里浜の野比中学においてあるそうだ。
伏龍に使った潜水器は、小型化されたとはいえ、ヘルメット式で全重量が68キロで]ヘルメットに閉じこめられた状態では式と同じ、陸上を歩くのも大変だ。純酸素を呼吸しているからと言って、波打ち際を長い距離、歩けるわけがない。
ダイバーだったらすぐにわかる。68キロを背負って、7mほどの爆薬の付いた竿を背負い、苦しい潜水機から呼吸し、波打ち際からエントリーし、海底をあるいて定められた地点に行く。多分、敵が上陸してくる海岸には、波もある。もしかしたら、サーフィンができるような海岸かもしれない。普通の考えでは不可能だ。訓練は過酷なものになったことはまちがいない。
先ごろ、硫黄島の映画が公開されたりしているが、硫黄島では、水際での邀撃はやめて、島全体に地下の壕を掘り、上陸させてから戦う戦闘を行い。太平洋戦争で、初めて、日本の戦傷者よりも米軍海兵隊の戦傷者が多く、それを恐れた米軍が、日本本土への上陸をできれば避けたい。そして、原爆の投下に繋がってしまったというのだが、それなのに、伏龍は水際の水中作戦だ。
清水さんの書いたマリンダイビングの記事では、戦車の楊陸をとどめたかったのだとある。それならと納得もできるが
清水さんには僕の100m潜水の総指揮をしていただいたが、他に一緒に仕事をした事が二つある。一つは現在も東亜潜水機の象徴のようになっている、潜水タワーの建設だった。僕はスクーバの練習が主体と考えてもっと浅くてもよいから面積をとりたかったのでだいぶ議論したが、これは清水案で作った。もう一つは、海上自衛隊の機雷処理部隊が潜水して機雷に取り付ける浮き袋だった。浮き袋をつけてから、ダイバーが余裕をもって水から上がってから 例えば30分後に浮き上がるから、これを銃撃して爆破させる。つまり時限装置だ。タイマーは電子式が普通だが、水中で使うには、確実性が自信がない。小さなボンベを付けてここからわずかずつ空気を漏らして、圧力の低下でスイッチが入るような装置、つまりリザーブバルブの裏返しを作った。僕がこのタイマーを、清水さんは浮き袋作った。
尾道のマリンテクノの教官をされていた三宅さんも伏龍の経験者である。三宅さんにもまだ話を聞いていない。今年こそ行きたいけれど、お元気だろうか。その三宅さんが呉の江田島に清水さんを案内した。今の江田島と昔の江田島ではかなりちがう。潜水訓練の施設も潜水機もちがう。清水さんは大変に喜ばれたが、その旅行からもどって、あまり時を置かずに亡くなってしまった。清水さんは、須賀君にもういちどあいたいと何度も言っていたと三宅さんに聞いた。僕も会いたかった。若い頃の無礼をお詫びするとともに、やはり、酸素中毒のことをもう一度聞きたい。いや、そういうところが、僕のよくないところで、もはや、結論、事実はわかっていることなのだから、20m1時間としておけばよい。たぶん、僕ならば、20m1時間でも酸素中毒にはならないと思う。僕も次第に清水さんに近くなっている。
「海軍伏龍特攻隊」光文社NF文庫 の著者である門奈鷹一郎さんのお話の会があり、それを聞きに藤沢まで行った。2010年のことである。門奈さんは伏龍の実際の体験者である。
友人である、パパラギの武本さんが主催する講演会である。武本さんは、PADIのダイビングショップチェーンを大々的に展開している人で、江ノ島でスノーケリングを積極的に進めても居る。スノーケリングのシンポジュウムを僕が計画したときにお話をしてもらって、以後、親しくなった。
僕とは生き方も考え方も違うけれど、尊敬できる商売人である。商売人であるけれど、社会に何か貢献しようという気持ちも持っておられて、このような会をやる。そして、その会も商売につなげてしまうところがすごい。
一度は門奈さんにお目にかかっておきたかったし、技術的なこと、当時の人間関係などについても、お聞きしたいこともあったのだが、講演を聴いた印象では、ほとんどが本にすでに書かれていたことだった。僕の聞きたかったこと、酸素中毒は本当に無かったのだろうか、などは、あまり関心もないらしく、ご存知無いようだった。酸素中毒でばたばた倒れるようなことは、やはり無かったらしい。
門奈さんと、伏龍の模型、そして武本さん。
この模型は、現在久里浜の野比中学においてあるそうだ。
伏龍に使った潜水器は、小型化されたとはいえ、ヘルメット式で全重量が68キロで]ヘルメットに閉じこめられた状態では式と同じ、陸上を歩くのも大変だ。純酸素を呼吸しているからと言って、波打ち際を長い距離、歩けるわけがない。
ダイバーだったらすぐにわかる。68キロを背負って、7mほどの爆薬の付いた竿を背負い、苦しい潜水機から呼吸し、波打ち際からエントリーし、海底をあるいて定められた地点に行く。多分、敵が上陸してくる海岸には、波もある。もしかしたら、サーフィンができるような海岸かもしれない。普通の考えでは不可能だ。訓練は過酷なものになったことはまちがいない。
先ごろ、硫黄島の映画が公開されたりしているが、硫黄島では、水際での邀撃はやめて、島全体に地下の壕を掘り、上陸させてから戦う戦闘を行い。太平洋戦争で、初めて、日本の戦傷者よりも米軍海兵隊の戦傷者が多く、それを恐れた米軍が、日本本土への上陸をできれば避けたい。そして、原爆の投下に繋がってしまったというのだが、それなのに、伏龍は水際の水中作戦だ。
清水さんの書いたマリンダイビングの記事では、戦車の楊陸をとどめたかったのだとある。それならと納得もできるが
清水さんには僕の100m潜水の総指揮をしていただいたが、他に一緒に仕事をした事が二つある。一つは現在も東亜潜水機の象徴のようになっている、潜水タワーの建設だった。僕はスクーバの練習が主体と考えてもっと浅くてもよいから面積をとりたかったのでだいぶ議論したが、これは清水案で作った。もう一つは、海上自衛隊の機雷処理部隊が潜水して機雷に取り付ける浮き袋だった。浮き袋をつけてから、ダイバーが余裕をもって水から上がってから 例えば30分後に浮き上がるから、これを銃撃して爆破させる。つまり時限装置だ。タイマーは電子式が普通だが、水中で使うには、確実性が自信がない。小さなボンベを付けてここからわずかずつ空気を漏らして、圧力の低下でスイッチが入るような装置、つまりリザーブバルブの裏返しを作った。僕がこのタイマーを、清水さんは浮き袋作った。
尾道のマリンテクノの教官をされていた三宅さんも伏龍の経験者である。三宅さんにもまだ話を聞いていない。今年こそ行きたいけれど、お元気だろうか。その三宅さんが呉の江田島に清水さんを案内した。今の江田島と昔の江田島ではかなりちがう。潜水訓練の施設も潜水機もちがう。清水さんは大変に喜ばれたが、その旅行からもどって、あまり時を置かずに亡くなってしまった。清水さんは、須賀君にもういちどあいたいと何度も言っていたと三宅さんに聞いた。僕も会いたかった。若い頃の無礼をお詫びするとともに、やはり、酸素中毒のことをもう一度聞きたい。いや、そういうところが、僕のよくないところで、もはや、結論、事実はわかっていることなのだから、20m1時間としておけばよい。たぶん、僕ならば、20m1時間でも酸素中毒にはならないと思う。僕も次第に清水さんに近くなっている。