伏龍での潜水についても清水さんは書いている。
「海底から海面に浮き上がることも必要だ。そのときは給気弁を開いて服内に酸素を放出して浮力をつけ、三保の松原の天女のごとく、ゆらりゆらりとのぼって行く、再び海面から下がるばあいはこの逆を行く。排気弁を押して潜水服をしぼませると沈み出すが、うっかりして排気が多すぎると急降下して自爆をとげる。そこで、沈降時は、給気弁を握って適宜補給し、墜落を防ぐのである。またヘリコプターのように、ほしいままに水中停止ができるのである。潜望鏡を使うのもこのときだ。海面に顔を出さずに敵状を偵察する。」
普通のヘルメット式潜水機はただ海底を歩くだけだ。潜降と浮上は潜降索(下がり綱)にすがって行う。手を離して墜落すれば、ひどいスクィーズ、バランスを崩して、足の方に空気が回れば逆立ち状態で吹き上げられ減圧症だ。それでも日本の潜水夫は職人気質で中性浮力で潜降したり浮上したりして事故を起こす。そんな事故を防ぐ為もあって潜水士の規則ができた。アメリカのヘルメット潜水機は、ステージに乗って、エレベータに乗るように潜降、浮上をする。
それが、小型ヘルメットとはいえ、フィンもつけない伏龍戦士は、水面近くに浮いて潜望鏡で偵察するという。数年の経験がなければこんな事はできない。しかし、清水さんは帝国海軍の潜水の神様といわれた人だ。
「訓練部隊たる第七十一嵐部隊の教育期間はおよそ一ヶ月、それでは、一人で海底を歩けるという段階に止まる。我々は、一年の養成期間を切望した。しかし戦局はその暇を与えない。7月中旬に第一回生を送り出すと、すぐにまた1000名の新隊員が入隊してきた。」1000台の潜水機を生産する能力は日本のどこにもない。東亜潜水機も海軍の指定工場であったが、一日に5台を作る能力もなかったろう。
「伏龍は敵の上陸軍を水際で撃滅するものであった。戦車揚陸用を含んだ敵上陸用舟艇を水際で爆砕するために、隊員は棒機雷を携行する。機雷な直径25mm長さ55mmの機雷には長さやく7mの竹竿がついていて、これを槍のように船めがけて突き出す。」
もちろん、自分の命はない。一緒に爆死する。特攻である。
特効の是非は現時点で論じても仕方がない。当時の僕は小学校2年生だったはずだが、東京の浜町の家は3月9日の下町大空襲で燃えて、留守番していた女の人が亡くなった。都心に向かって逃げれば助かったのに、実家が江戸川の方だったので、下町に向かって逃げた。僕もそのまま戦争が続いて大きくなったら特攻に志願したと思う。伏龍特攻隊は、予科練の10代の子供たちだった。飛行機で体当たりしようと予科練に志願したのだが、そのころはもう彼らを乗せる飛行機はなく、飛行機の代わりの潜水機だった。
とりあえず潜水して棒機雷をもって配置につけるように練習を積んだ伏龍特攻隊は、敵の上陸の知らせをうけて、一度だけ出撃しようとしたが、誤報だった。
清水さんは残念だったような表現で書いているが、誤報でよかった。上陸してくる米軍の方には、UDT 水中破壊部隊というスキンダイビング部隊があった。上陸用舟艇がくる前に、泳いで来て障害物を爆破する。彼らが、伏龍と出会ったら、どんな戦闘が展開されただろうか。なお、UDT の損耗率も高く、グアムだったかへの上陸では40%が失われたという。伏龍特攻隊を題材にした小説、ノンフィクションも何冊も出ていて、青春ものみたいなのもあれば、残酷物語もある。私見を言えば、当時の軍隊はすべて残酷だった。どの兵種でも人はたくさん死んだ。特に伏龍特攻隊だけが、死亡事故が多かったということは無いとおもう。その点については、今でも同じ水の事故でも潜水は特筆されるのとおなじだろう。清水さんは、自分のところでは無事故だというが、戦争の練習をしていて無事故のはずがない。しかし、次回に述べる「海軍伏龍特攻隊」光文社NF文庫 でも、他の本でも、清水さんのことを悪く書いている本はない。まっすぐに潜水だけに賭けた人だったのだろう。しかし、頑固でついに酸素中毒は、水深10mで
5時間は大丈夫、20mで1時間は大丈夫で、この潜水機で三浦岬の海に潜り、食料の採捕も行っていたと譲らなかった。
「海底から海面に浮き上がることも必要だ。そのときは給気弁を開いて服内に酸素を放出して浮力をつけ、三保の松原の天女のごとく、ゆらりゆらりとのぼって行く、再び海面から下がるばあいはこの逆を行く。排気弁を押して潜水服をしぼませると沈み出すが、うっかりして排気が多すぎると急降下して自爆をとげる。そこで、沈降時は、給気弁を握って適宜補給し、墜落を防ぐのである。またヘリコプターのように、ほしいままに水中停止ができるのである。潜望鏡を使うのもこのときだ。海面に顔を出さずに敵状を偵察する。」
普通のヘルメット式潜水機はただ海底を歩くだけだ。潜降と浮上は潜降索(下がり綱)にすがって行う。手を離して墜落すれば、ひどいスクィーズ、バランスを崩して、足の方に空気が回れば逆立ち状態で吹き上げられ減圧症だ。それでも日本の潜水夫は職人気質で中性浮力で潜降したり浮上したりして事故を起こす。そんな事故を防ぐ為もあって潜水士の規則ができた。アメリカのヘルメット潜水機は、ステージに乗って、エレベータに乗るように潜降、浮上をする。
それが、小型ヘルメットとはいえ、フィンもつけない伏龍戦士は、水面近くに浮いて潜望鏡で偵察するという。数年の経験がなければこんな事はできない。しかし、清水さんは帝国海軍の潜水の神様といわれた人だ。
「訓練部隊たる第七十一嵐部隊の教育期間はおよそ一ヶ月、それでは、一人で海底を歩けるという段階に止まる。我々は、一年の養成期間を切望した。しかし戦局はその暇を与えない。7月中旬に第一回生を送り出すと、すぐにまた1000名の新隊員が入隊してきた。」1000台の潜水機を生産する能力は日本のどこにもない。東亜潜水機も海軍の指定工場であったが、一日に5台を作る能力もなかったろう。
「伏龍は敵の上陸軍を水際で撃滅するものであった。戦車揚陸用を含んだ敵上陸用舟艇を水際で爆砕するために、隊員は棒機雷を携行する。機雷な直径25mm長さ55mmの機雷には長さやく7mの竹竿がついていて、これを槍のように船めがけて突き出す。」
もちろん、自分の命はない。一緒に爆死する。特攻である。
特効の是非は現時点で論じても仕方がない。当時の僕は小学校2年生だったはずだが、東京の浜町の家は3月9日の下町大空襲で燃えて、留守番していた女の人が亡くなった。都心に向かって逃げれば助かったのに、実家が江戸川の方だったので、下町に向かって逃げた。僕もそのまま戦争が続いて大きくなったら特攻に志願したと思う。伏龍特攻隊は、予科練の10代の子供たちだった。飛行機で体当たりしようと予科練に志願したのだが、そのころはもう彼らを乗せる飛行機はなく、飛行機の代わりの潜水機だった。
とりあえず潜水して棒機雷をもって配置につけるように練習を積んだ伏龍特攻隊は、敵の上陸の知らせをうけて、一度だけ出撃しようとしたが、誤報だった。
清水さんは残念だったような表現で書いているが、誤報でよかった。上陸してくる米軍の方には、UDT 水中破壊部隊というスキンダイビング部隊があった。上陸用舟艇がくる前に、泳いで来て障害物を爆破する。彼らが、伏龍と出会ったら、どんな戦闘が展開されただろうか。なお、UDT の損耗率も高く、グアムだったかへの上陸では40%が失われたという。伏龍特攻隊を題材にした小説、ノンフィクションも何冊も出ていて、青春ものみたいなのもあれば、残酷物語もある。私見を言えば、当時の軍隊はすべて残酷だった。どの兵種でも人はたくさん死んだ。特に伏龍特攻隊だけが、死亡事故が多かったということは無いとおもう。その点については、今でも同じ水の事故でも潜水は特筆されるのとおなじだろう。清水さんは、自分のところでは無事故だというが、戦争の練習をしていて無事故のはずがない。しかし、次回に述べる「海軍伏龍特攻隊」光文社NF文庫 でも、他の本でも、清水さんのことを悪く書いている本はない。まっすぐに潜水だけに賭けた人だったのだろう。しかし、頑固でついに酸素中毒は、水深10mで
5時間は大丈夫、20mで1時間は大丈夫で、この潜水機で三浦岬の海に潜り、食料の採捕も行っていたと譲らなかった。