富戸
早く書かないと、富戸と赤沢のダイビングについては忘れてしまう。もうすでに忘れているかもしれない。グラフィティの単行本化のための年表の編集をやっている。同時にあとがきの書き直し、そして、コラムももう一度見直したい。その間を縫って、横須賀のJAMSTECに一般公開に行った。この印象が強くてブログに書いたりしていたら、そのひとつ前のできごとは、消えかかる。
何とか螺子を元に戻して、5月3日だ。
3日のダイビングで問題とするポイントは、映美が浮いてしまったこと、そして、それをGoProのポールカメラで撮っているのに、僕が肉眼では気づいていない。水中でウエイトが重く、バランスが悪く、自分の生命維持だけで一杯になっている。もっとトレーニングしなければ、と焦るけれど、原稿にも追われているし、デスクワークも進まない。
3日の富戸の泊まりは、大西のところで、僕たち男三人は大西のお父さんが住んでいる家の二階に泊まる。女性たちは大西のところの宿泊だ。泊まりは安いのだが、食事がない。近くの魚料理の店に行く。後から考えれば、コンビニで何かを買って宿で食べても良いのだが、石川さんが良く行くという魚料理の店を予約している。
魚料理は、おいしいけれど、最近の僕は何かを食べておいしいと喜ぶことがない。お酒も飲まないし。
それでもみんなと食事すれば楽しい。僕たちのグループの他のお客も一緒に席に着いた。大西グループの方は、学芸大学のOBの匂いがする。一緒にショップをやっていたころのお客で、大西が引き継いだ。
まず、僕にとって感慨があるのは、緑が僕のところにスノーケリングを習いに来てから10年が過ぎた。村上お父さんが、10年のお礼を言ってくれた。この10年、僕にとっても、激動だった。好んで激動にしているのだから、文句のつけようもないのだが、いろいろなことがあった。
小学校3年だった緑は、中学生になり高校生になり卒業して大学一年になっている。高校3年、つまり去年は大学受験のために海には来なかった。だから、一年のブランクだ。ダイビングのブランクの内に、人としてはずいぶん成長した。中学、高校の時は僕とほとんどしゃべらなかった。必要なことはしゃべるのだが、お話はできなかった今度は、しゃべれるようになった。自発的にやったのか、お父さんに促されたのかわからないが、多分自発的だろう、石川さんにお酒をお酌できた。形になっているお酌だった。
席は黒沢さんの隣だったが、その黒沢さんが船の科学館の流れるプールでのスノーケリング講習の時に、水中で緑の写真を撮った。そして、10年だ。
次に映美だ。僕とバディを組んだが、バディとはどういうものか、僕とバディを組む時はどうするのか、教えていなかった。酒の席だけれど、終わり近くなってそばに行って話した。僕は映美も大好きだから、ダイビングが出来るようになってもらいたい。C-カードの講習でやる練習とかは、どうでも良くて、と言っても一応は出来るのだが、海での動きが大事だ。まず、僕の横にしっかりと、手を延ばせば届く距離にいてほしい。今の段階ではあまり離れてもらいたくない。それがきっちりできたら、どこに潜りに行っても大丈夫だ。次の段階で、離れてもコンタクトができるようになることを目指す。
そして、海底からの距離だ。上方50センチで水平になり泥を巻き上げないように泳ぐ。それがすべての第一歩だ。
緑も映美もできればプライマリーに来てもらいたいけれど、7月には強制的に来させよう。
まみが後から参加してきた。僕はあまり考えなかったのだが、この宴会のお金を請求してしまった。意外そうな顔をしていたので、しまったと思った。途中参加だから、焼きそばしか食べていない。まあ、そんなことはいいか。
石川さんの悪い癖というか、良い習慣と言うか、全員、みんなに短いスピーチをさせる。緑も映美もきちんと話ができた。映美の方は大学を卒業して社会人になっているのだから、当然だが、当然という僕は、未だ、彼女が大学生のような気持ちでいる。社会人の空気が無いのだ、そこが気に入ってはいるのだけれど。僕の仕事のバディだった鶴町の娘で、鶴町はもうこの世に居ない。
僕にもスピーチが、とり、でまわって来た。僕は大西の事を話す。彼が僕のアシスタントの時。まず僕にタンクを背負わせる。僕が水に入る前に自分もタンクを背負って、水面の僕にカメラを渡して、すぐに飛び込んできて僕に並ぶ。これだけではないのだが、彼はおそらくカメラの助手をさせたら、日本で一番だろう。もちろんカメラも上手だ。中川も大西を助手に使えば一番楽だ。しかし、今はダイビングサービスのオーナーなのだから、あんまりアシスタントを頼めない。しかし、こういうアシスタントの修行こそが、インストラクターとかガイドダイバーには必須だろう。ガイドダイバーとしてもインストラクターとしても、日本一だろう、日本一はたくさんいるけれど、僕の助手をした人はみな日本一になる。
そんな話をした。
早く書かないと、富戸と赤沢のダイビングについては忘れてしまう。もうすでに忘れているかもしれない。グラフィティの単行本化のための年表の編集をやっている。同時にあとがきの書き直し、そして、コラムももう一度見直したい。その間を縫って、横須賀のJAMSTECに一般公開に行った。この印象が強くてブログに書いたりしていたら、そのひとつ前のできごとは、消えかかる。
何とか螺子を元に戻して、5月3日だ。
3日のダイビングで問題とするポイントは、映美が浮いてしまったこと、そして、それをGoProのポールカメラで撮っているのに、僕が肉眼では気づいていない。水中でウエイトが重く、バランスが悪く、自分の生命維持だけで一杯になっている。もっとトレーニングしなければ、と焦るけれど、原稿にも追われているし、デスクワークも進まない。
3日の富戸の泊まりは、大西のところで、僕たち男三人は大西のお父さんが住んでいる家の二階に泊まる。女性たちは大西のところの宿泊だ。泊まりは安いのだが、食事がない。近くの魚料理の店に行く。後から考えれば、コンビニで何かを買って宿で食べても良いのだが、石川さんが良く行くという魚料理の店を予約している。
魚料理は、おいしいけれど、最近の僕は何かを食べておいしいと喜ぶことがない。お酒も飲まないし。
それでもみんなと食事すれば楽しい。僕たちのグループの他のお客も一緒に席に着いた。大西グループの方は、学芸大学のOBの匂いがする。一緒にショップをやっていたころのお客で、大西が引き継いだ。
まず、僕にとって感慨があるのは、緑が僕のところにスノーケリングを習いに来てから10年が過ぎた。村上お父さんが、10年のお礼を言ってくれた。この10年、僕にとっても、激動だった。好んで激動にしているのだから、文句のつけようもないのだが、いろいろなことがあった。
小学校3年だった緑は、中学生になり高校生になり卒業して大学一年になっている。高校3年、つまり去年は大学受験のために海には来なかった。だから、一年のブランクだ。ダイビングのブランクの内に、人としてはずいぶん成長した。中学、高校の時は僕とほとんどしゃべらなかった。必要なことはしゃべるのだが、お話はできなかった今度は、しゃべれるようになった。自発的にやったのか、お父さんに促されたのかわからないが、多分自発的だろう、石川さんにお酒をお酌できた。形になっているお酌だった。
席は黒沢さんの隣だったが、その黒沢さんが船の科学館の流れるプールでのスノーケリング講習の時に、水中で緑の写真を撮った。そして、10年だ。
次に映美だ。僕とバディを組んだが、バディとはどういうものか、僕とバディを組む時はどうするのか、教えていなかった。酒の席だけれど、終わり近くなってそばに行って話した。僕は映美も大好きだから、ダイビングが出来るようになってもらいたい。C-カードの講習でやる練習とかは、どうでも良くて、と言っても一応は出来るのだが、海での動きが大事だ。まず、僕の横にしっかりと、手を延ばせば届く距離にいてほしい。今の段階ではあまり離れてもらいたくない。それがきっちりできたら、どこに潜りに行っても大丈夫だ。次の段階で、離れてもコンタクトができるようになることを目指す。
そして、海底からの距離だ。上方50センチで水平になり泥を巻き上げないように泳ぐ。それがすべての第一歩だ。
緑も映美もできればプライマリーに来てもらいたいけれど、7月には強制的に来させよう。
まみが後から参加してきた。僕はあまり考えなかったのだが、この宴会のお金を請求してしまった。意外そうな顔をしていたので、しまったと思った。途中参加だから、焼きそばしか食べていない。まあ、そんなことはいいか。
石川さんの悪い癖というか、良い習慣と言うか、全員、みんなに短いスピーチをさせる。緑も映美もきちんと話ができた。映美の方は大学を卒業して社会人になっているのだから、当然だが、当然という僕は、未だ、彼女が大学生のような気持ちでいる。社会人の空気が無いのだ、そこが気に入ってはいるのだけれど。僕の仕事のバディだった鶴町の娘で、鶴町はもうこの世に居ない。
僕にもスピーチが、とり、でまわって来た。僕は大西の事を話す。彼が僕のアシスタントの時。まず僕にタンクを背負わせる。僕が水に入る前に自分もタンクを背負って、水面の僕にカメラを渡して、すぐに飛び込んできて僕に並ぶ。これだけではないのだが、彼はおそらくカメラの助手をさせたら、日本で一番だろう。もちろんカメラも上手だ。中川も大西を助手に使えば一番楽だ。しかし、今はダイビングサービスのオーナーなのだから、あんまりアシスタントを頼めない。しかし、こういうアシスタントの修行こそが、インストラクターとかガイドダイバーには必須だろう。ガイドダイバーとしてもインストラクターとしても、日本一だろう、日本一はたくさんいるけれど、僕の助手をした人はみな日本一になる。
そんな話をした。