Quantcast
Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
Viewing all articles
Browse latest Browse all 1388

0429 冒険ファイナル

$
0
0
コラム全部を書き終えた。そして本文の見直しをした。本文は冒険ノンフィクションとして面白いのだが、章の間にコラムを置くと、流れをせき止めてしまう。それでも、何とか並べた。しかし、完璧には納得できていない。そういうものだと割り切るしかないのかもしれない。ある程度は書き直さなくては、一番の問題は、このところ、思い悩んで書き直しを続けている冒険・探検、そして潜水だ。どこにも置くところがない。あとがき的に、一番最後においてみた。これしかない。
本文を読み直してみたら、その中に、終わりの章に答えがあった。

「僕は’56年にダイビングを始めて以来、夢と冒険を追ってきた。人間が生きられない水中に潜り、全能力を挙げて危険を回避し、自分のやろうとしていたことを達成して生きて戻ってくる。このことがすなわち冒険である。ここまで述べてきた僕のすべての潜水が冒険であり、そのうちのいくつかは生きるか死ぬかの瀬戸際の危険であっただろう。「あ、危ない」と頭の中で感じたことは数知れない。夢と冒険を追うということは、同時に安全を追い求めることでもある。’67年に「日本潜水会」を発足させたのは、1人では安全は達成できない、皆で助け合おうということだった。水中スポーツ大会(フリッパー競技会)は、危険を避ける能力を競う大会であった。泳ぐ能力が生死を分ける。泳ぐ能力に応じて行動半径を決めることが安全につながると考えたからだ。スガマリンメカニックでの調査潜水もつねに危険と真正面から向き合っていた。入社したいと訪れた若者に「ダイビングはロシアンルーレット」などと脅かしてきたのも、危険回避のための人選だった。だが、安全を追求してきたつもりの僕を打ちのめす出来事が起きた。」
これが最後の24章だ。

結局のところ、安全について、探検について、危険について、調べて引用しても、それは自分の意見、考え方ではない。植村さんは、自分の登山から自分の冒険を定義した。「死を覚悟して、そして生きてもどってくること」彼は戻ってこなかった。
僕の答えを探そう。冒険とは、潜水のことだ。探検とは、これも潜水の事に他ならない。

これがファイナル。
「冒険と探検そして潜水
 人間には鰓がない。水中では呼吸をつづけられない。海水浴も、スノーケリングも、潜水も常に危険。昔の人は、「板子一枚下は地獄」と言った。板子一枚下は冒険である。冒険とは生きて還ってくる、安全の追求でもある。
 水の中に潜水すると、それはいつも未知の世界。これで、100回以上潜っている、あの濁ったお台場の潜水でも、潜るたびに発見がある。僕にとって、そしてすべてのダイバーにとって、探検とは潜水の事、冒険とは潜水の事。山登りの人とか、極地へ行く人にはまた別の結論があるにちがいない。
そして、ダイビングの事故は、想定外、つまり冒険として身構えていない隙に起こることが多い。常に冒険だと思って恐れ準備をしなければならない。でも、冒険だからパーフェクトはありえない。」

336字
これで、冒険についての、グラフィティメイキングは、決まりとしよう。
「冒険とは、危険の存在する領域に分け入って、そして生還すること。探検とは未知の領域に分け入り、その未知を調べること。」「水中は、水中であるから危険、そして、何時でもどこでも未知を見つける。

60歳の100m潜水の時の社員、これに中川、鶴町、米田、塩脇 横澤が加わると全員になる。そして、亡くなった脇水輝之を加えて16名、15名以上にはしないつもりだったから、MAXだ。あれから、19年、3名がそれぞれ癌で命を失くした。80歳の80mはどうなるだろう。冒険であり、高齢と言う未知の世界の探検でもある。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 1388

Trending Articles