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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1231 後藤道夫を偲ぶ

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 2013年、本当にあと一日。12月20日、20歳の時から、一緒に潜水生活を送ってきた親友以上の後藤道夫が世を去った。20歳の時から、時には別々でしたが78歳の夏まで、一緒にダイビングのことを、つまり潜水生活を送ってきた。僕の方が2つ年上だから、「死に花を咲かせてやる」JAUS発足に賛同してくれて、2011年の震災、原発事故以来、海の放射性物質調査のかけていた僕のために、γ線のスペクトル分析機器のハウジングを作ってくれた。まだ、この分析器は世に出ていないが、役に立つと思う・

    今年の8月 分析器 後藤道夫の顔が写っていない。



写真は、1978年、「潜水と水中撮影入門」という本を共立出版から共著で出した時のカバーの裏の写真だが、思えば、1978年は、僕たちの潜水の一つの頂点だった。そして、この時が僕と後藤道夫の潜水生活が交錯した時でもある。それまで、僕はスガ・マリンメカニックという会社を作って、ブロニカマリンなどのハウジングを売っていた。後藤道夫はカメラマンで「写真集・サンゴ礁の海」などを出し、テレビ番組「まちゃあき海を行く」の撮影をしていたりもしていた。
     以下はこの本からお転写
R116 というのは僕の作っていたブロニカマリン

 後藤道夫が作ったマスク、一眼で、シングルリップ目とガラスの距離が近く、顔によくフィットした。

後藤道夫はものつくりの天才でもあり、彼のデザインのウエットスーツは一番良かった。今では弟の勇毅さんがUGOという店を開いて、固定したフアンをもっている。そして、後藤道夫のデザインし制作したマスクは、そのころ一番人気が高かった。いまでもきっとリバイバルすれば売れると思う。

 彼は、自分の撮影はすべて自分の作ったハウジング、で撮影しなければいけないとおもっていたので、やがて、NHKの撮影機器をすべて作るようになり、大きな工作機械を次々と買い込み、水中機器製作の工場になってしまった。特に大型のステンレスの切削は、ここでなければできない。そんなことになり、この10年はJAMSTECの深海用の撮影機器の製作を日本では一手に引き受けていた。
しかし、切削機械を毎日扱って、切削の油からでる煙を吸い込んだことで喘息になり、それが死をはやめたのだとも思っている。僕の方はカメラマンとしてはニュース・ステーションの水中レポートシリーズ、沿岸漁業のリサーチャーになり、カメラマンとしての活動で生計を立てたから、病気になっても常に海で潜って治し、78歳の今日まで潜水生活を続けている。彼の門下の鶴耀一郎(故人)は、素潜りの達人で一世を風靡したし、潜水しての作業は、若い五島正哲、などがやっていて、これも繁盛していた。
実は僕もテレビ撮影のハウジングを作っていたし撮影もした。この部分ではライバルであったわけで、仕事を一緒にしていたということは無かった。
 話をもどして
「潜水と水中撮影入門」は、水中の広さを表現して、わかりやすく説明するために、当時の仲間の加藤画伯が挿絵を書いてくれた。 今見ても、この絵はすばらしく、そしてわかりやすい。 
撮影技術、潜水技術については、まだBCの普及する前のダイビングとしては、この本の時代の僕たちが、世界の頂点にいたと思う。

     僕のリサーチダイビングの記録用紙



正月が明けた、1月10日 13時から 小田原の湘和会館でお別れの会がある。スピーチをしなくてはならない。と同時に、彼の若き日が写っている、テレビ番組「まちゃあき海を行く」の一部を映写しようと準備をしている。この会ではすべてを映写するわけには行かないので、東京で別の機会をつくって、映写会をやりたいと思う。当時のダイビングのスタイルがよくわかるし、おもしろい映像でもある。
 怪物ウツボ君、ウツボに餌付けしている。


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