潜水士の受験本を工藤君と共著で書いている。そこで、受験本では書けない、つまり受験とは全く関係がない潜水士のことについて、しばらくの間、時々、思いついたことを書いてみよう。月間ダイバーのグラフィティにも書いているが、1962年、昭和37年の3月に潜水士制度第一回試験があった。だから、それに先立って規則ができ、規則に沿ってテキストも作られた。そのテキストも持っていたのだが、昔のことは忘れた。と、度重なる引越し流転の間に捨ててしまった。
それはどうでも良いのだが、1962年、潜水士の資格制度ができた。何が主たる目的だったかといえば、減圧症、その頃、それ以前は潜水病という事の方が多かった。潜水病の防止だった。同時にヘルメット式潜水器のいくつかの事故,吹き上げ、墜落などの防止だった。スクーバ、当時のアクアラングは、その他の潜水器に分類されていて、つまり付け足しだった。
1935年に書かれた三浦定之助の「潜水の友」によれば、仲間のダイバーの20%は、慢性の潜水病に罹っていた。三浦先輩自身も潜水病で晩年はあまり具合が良くなく、僕の母校、今の東京海洋大学の前身の東京水産大学のさらに前身である水産講習所の卒業であり、大先輩であり、伊東の水産試験場の場長も務められ、オープンサーキットスクーバの元祖とも言われる大串式潜水マスクの改良型である山本式を駆使して、定置網潜水の普及に務められ、水深60mを越す潜水ができるダイバーを多数育成した。その20%が潜水病だったということだ。三浦さんは他にも魚の本を何冊も書かれていて、減圧症について無知だったわけではない。当時使われた帝国海軍の減圧表も残っている。しかし、それでも20%だったのだ。
日本人の潜水というと、アラフラ海、木曜島群島の白蝶貝(真珠もとれる)採取の日本人ダイバーの物語がある。木曜島には、減圧症で死んだ日本人ダイバーの墓が林立しているという。僕のたしか3年後輩で東京水産大学潜水部出身の笹原捷夫さんが、真珠会社に就職し、このとこの思い出をかいた「アラフラ海の思い出」が自費出版されている。事情がわかって面白い。笹原さんは、アラフラから帰国後、日本ブリジストンに入り、初代の土肥101の所長でもある。
笹原さんの本は容易には手に入らないが、直ぐに手に入る本として「木曜島の夜会 司馬遼太郎:文春文庫」がある。前にもブログで紹介したことがあるが、この本は、ダイバーについて書かれた絶対的な名作、ノンフィクションだと思う。司馬遼太郎の他の本も、坂の上の雲とか、かなり愛読した。しかし、歴史書としては、あれが日本人全体の史観になってしまうことには、賛同できない。木曜島の夜会だけは、ダイバーであってもし、読んでいない人がいたら読んで欲しい。文庫本で100ページほどの中編である。
潜水病に罹っても死んでも海に潜りたい「ダイヴァー」の業が書かれている。この本に出てくる、藤井さんとは、笹原さんも会っている。僕もなんとしても、木曜島に行き、日本人ダイバーの夢の跡、墓場に潜ってみたいと思っているが、果たせそうもない。
大串式潜水機のことを書いた「海底の黄金:片岡弓八と沈船八坂丸:山田道幸著、講談社」にも木曜島のこと、そして潜水病のことが書かれている。木曜島でヘルメット式ダイバーと大串式が競って勝利を収めるくだりは小説としては面白いが、ノンフィクションとしては、眉唾ものである。著者の山田さんは歯医者さんだというが、グレートバリアリーフにも行ったことがある、一応のダイバーで、新田次郎に師事して、ペンクラブ会員でもある。眉唾だなと思いながら、木曜島に大串式を売り込んで、八坂丸引き上げの資金稼ぎをしようと、ヘルメット式ダイバーと競争して、勝利をおさめる部分は小説として一気に読ませてしまう。
潜水士の受験から、はるか遠くまで脱線してきたが、ついでだからもう少し脱線しよう。
木曜島で使われていたヘルメットは、ヘンキー式(多分英国のヘインケという会社が原型だと思う)と呼ばれている通常のヘルメットよりも大きくてごつい。オーストラリア北端とパプア・ニューギニアの間の狭いトーレス海峡は急流なのだろう、その斜面、今で言えばドロップオフに白蝶貝が着いている。そこをドリフトで流しながら貝を取る。スクーバならばドリフトも容易だが、ヘルメットである。墜落と吹上げが恐ろしいヘルメットで、吹上げ墜落防止のために、潜降索に伝わって降りる。アメリカのヘルメットダイバーは、ステージに乗って上げ下ろしされる。ヘンキー式は、ハーフドレスである。
ごついヘルメットに潜水服はへその上あたりまで、袖は半袖だ。余った空気は下から逃げるから、潜水服の足の部分に溜まる空気はないから、足を上にして転倒することはない。吹上げは起こり難い。ウエイトは頑丈なヘルメットのブレストプレートに付けてある。半袖の腕を締めると、服の中に空気がたまるから浮き、肘を開くと、空気が逃げて沈む。腕で調節して中性浮力で、流してゆく。頑丈だから、岩にヘルメットがぶつかっても大丈夫だ。
こんなヘルメットのところに、歯で洗濯バサミのような開閉弁で空気を出したり止めたりするデマンドバルブを使う大串式は、どうだったのだろう。正反対の潜水器だ。もしかしたら、大串式は勝負に勝ったかもしれない。しかし、頑固なヘルメットに慣れたダイバーたちが、道具をマスクに替えたとは思えない。
ヘンキーに何故詳しいかというと、僕の居た東亜潜水機で、ヘルメットもハーフドレスも作っていたからだ。ピカピカのヘンキーヘルメットを、一年に2台ぐらい作っていた。
ヘルメット式は滅び行く潜水器だとは思う。しかし、来年2月2日のシンポジウムには、ヘルメット式潜水によるプロのダイビングを教える専門の種市高校の先生が来て、30分程度の講演をしてくれる。アマちゃんにも出てきたらしい高等学校だ。「南部もぐり」と呼んで、ヘルメット式を大事にしている。ここが、ヘルメット式を教えることを止めたら、もうヘルメット式を教えるところはない。ヘルメット式の練習はスクーバのC-カードとはちがう。2月2日のシンポジウムで、話をきかせていただいたあと懇親会で相談して、夏には、種市高校へ見学に行く、日本水中科学協会のツアー?をやりたい。
一方で、先日の芝浦工大の45周年で、現東亜潜水機社長の佐野弘幸君に会った。日本で、もしかしたら世界でただ一つのヘルメット式潜水のヘルメットを作る会社だ。それが、ヘルメットを作る職人が居なくなってしまったという。山沢くんという僕と同年輩の職人さんがいた。先代は、向島にヘルメット工場があって、工場といっても、師匠と弟子の山澤くんだけの工場だが、職人といっても、素敵な男だったのだが、亡くなってしまったという。山澤さんとは、当時の若手どうしで、春はお花見、夏は海水浴、秋は温泉の、東亜慰安旅行で一緒に幹事もやったことがあるのだが、東亜に在籍10年の間に、一度だけ向島工場に見学に行ったことがある。師匠の名は、忘れてしまった。ヘルメットは、へら絞りというやり方で、銅の板から、カップをつくる。美術工芸品のようなものなのだ。出来上がりのヘルメットは工芸品だが、海で使われての耐用年数は、50年以上ある。ぼくが東亜潜水機に居たころ、明治何年というネームプレートのヘルメットが修理に入ってきた。明治18年ごろが日本のヘルメット潜水の黎明だから、歴史を生きてきた道具である。つくも神になっていたかもしれない。そして、来年潜水士の規則は幾分か変更になり、テキストも書き直されるだろう。そのテキストで、美術工芸品のヘルメットは、どんな扱いになるのだろうか。
そして、種市高校の「南部もぐり110年のロマン」(そういうDVDをいただいている。)はどうなるだろうか。150年になるだろうか。日本のヘルメット式が、日本の潜水の文化と言えるのかも知れない。そうしなければいけない。
それはどうでも良いのだが、1962年、潜水士の資格制度ができた。何が主たる目的だったかといえば、減圧症、その頃、それ以前は潜水病という事の方が多かった。潜水病の防止だった。同時にヘルメット式潜水器のいくつかの事故,吹き上げ、墜落などの防止だった。スクーバ、当時のアクアラングは、その他の潜水器に分類されていて、つまり付け足しだった。
1935年に書かれた三浦定之助の「潜水の友」によれば、仲間のダイバーの20%は、慢性の潜水病に罹っていた。三浦先輩自身も潜水病で晩年はあまり具合が良くなく、僕の母校、今の東京海洋大学の前身の東京水産大学のさらに前身である水産講習所の卒業であり、大先輩であり、伊東の水産試験場の場長も務められ、オープンサーキットスクーバの元祖とも言われる大串式潜水マスクの改良型である山本式を駆使して、定置網潜水の普及に務められ、水深60mを越す潜水ができるダイバーを多数育成した。その20%が潜水病だったということだ。三浦さんは他にも魚の本を何冊も書かれていて、減圧症について無知だったわけではない。当時使われた帝国海軍の減圧表も残っている。しかし、それでも20%だったのだ。
日本人の潜水というと、アラフラ海、木曜島群島の白蝶貝(真珠もとれる)採取の日本人ダイバーの物語がある。木曜島には、減圧症で死んだ日本人ダイバーの墓が林立しているという。僕のたしか3年後輩で東京水産大学潜水部出身の笹原捷夫さんが、真珠会社に就職し、このとこの思い出をかいた「アラフラ海の思い出」が自費出版されている。事情がわかって面白い。笹原さんは、アラフラから帰国後、日本ブリジストンに入り、初代の土肥101の所長でもある。
笹原さんの本は容易には手に入らないが、直ぐに手に入る本として「木曜島の夜会 司馬遼太郎:文春文庫」がある。前にもブログで紹介したことがあるが、この本は、ダイバーについて書かれた絶対的な名作、ノンフィクションだと思う。司馬遼太郎の他の本も、坂の上の雲とか、かなり愛読した。しかし、歴史書としては、あれが日本人全体の史観になってしまうことには、賛同できない。木曜島の夜会だけは、ダイバーであってもし、読んでいない人がいたら読んで欲しい。文庫本で100ページほどの中編である。
潜水病に罹っても死んでも海に潜りたい「ダイヴァー」の業が書かれている。この本に出てくる、藤井さんとは、笹原さんも会っている。僕もなんとしても、木曜島に行き、日本人ダイバーの夢の跡、墓場に潜ってみたいと思っているが、果たせそうもない。
大串式潜水機のことを書いた「海底の黄金:片岡弓八と沈船八坂丸:山田道幸著、講談社」にも木曜島のこと、そして潜水病のことが書かれている。木曜島でヘルメット式ダイバーと大串式が競って勝利を収めるくだりは小説としては面白いが、ノンフィクションとしては、眉唾ものである。著者の山田さんは歯医者さんだというが、グレートバリアリーフにも行ったことがある、一応のダイバーで、新田次郎に師事して、ペンクラブ会員でもある。眉唾だなと思いながら、木曜島に大串式を売り込んで、八坂丸引き上げの資金稼ぎをしようと、ヘルメット式ダイバーと競争して、勝利をおさめる部分は小説として一気に読ませてしまう。
潜水士の受験から、はるか遠くまで脱線してきたが、ついでだからもう少し脱線しよう。
木曜島で使われていたヘルメットは、ヘンキー式(多分英国のヘインケという会社が原型だと思う)と呼ばれている通常のヘルメットよりも大きくてごつい。オーストラリア北端とパプア・ニューギニアの間の狭いトーレス海峡は急流なのだろう、その斜面、今で言えばドロップオフに白蝶貝が着いている。そこをドリフトで流しながら貝を取る。スクーバならばドリフトも容易だが、ヘルメットである。墜落と吹上げが恐ろしいヘルメットで、吹上げ墜落防止のために、潜降索に伝わって降りる。アメリカのヘルメットダイバーは、ステージに乗って上げ下ろしされる。ヘンキー式は、ハーフドレスである。
ごついヘルメットに潜水服はへその上あたりまで、袖は半袖だ。余った空気は下から逃げるから、潜水服の足の部分に溜まる空気はないから、足を上にして転倒することはない。吹上げは起こり難い。ウエイトは頑丈なヘルメットのブレストプレートに付けてある。半袖の腕を締めると、服の中に空気がたまるから浮き、肘を開くと、空気が逃げて沈む。腕で調節して中性浮力で、流してゆく。頑丈だから、岩にヘルメットがぶつかっても大丈夫だ。
こんなヘルメットのところに、歯で洗濯バサミのような開閉弁で空気を出したり止めたりするデマンドバルブを使う大串式は、どうだったのだろう。正反対の潜水器だ。もしかしたら、大串式は勝負に勝ったかもしれない。しかし、頑固なヘルメットに慣れたダイバーたちが、道具をマスクに替えたとは思えない。
ヘンキーに何故詳しいかというと、僕の居た東亜潜水機で、ヘルメットもハーフドレスも作っていたからだ。ピカピカのヘンキーヘルメットを、一年に2台ぐらい作っていた。
ヘルメット式は滅び行く潜水器だとは思う。しかし、来年2月2日のシンポジウムには、ヘルメット式潜水によるプロのダイビングを教える専門の種市高校の先生が来て、30分程度の講演をしてくれる。アマちゃんにも出てきたらしい高等学校だ。「南部もぐり」と呼んで、ヘルメット式を大事にしている。ここが、ヘルメット式を教えることを止めたら、もうヘルメット式を教えるところはない。ヘルメット式の練習はスクーバのC-カードとはちがう。2月2日のシンポジウムで、話をきかせていただいたあと懇親会で相談して、夏には、種市高校へ見学に行く、日本水中科学協会のツアー?をやりたい。
一方で、先日の芝浦工大の45周年で、現東亜潜水機社長の佐野弘幸君に会った。日本で、もしかしたら世界でただ一つのヘルメット式潜水のヘルメットを作る会社だ。それが、ヘルメットを作る職人が居なくなってしまったという。山沢くんという僕と同年輩の職人さんがいた。先代は、向島にヘルメット工場があって、工場といっても、師匠と弟子の山澤くんだけの工場だが、職人といっても、素敵な男だったのだが、亡くなってしまったという。山澤さんとは、当時の若手どうしで、春はお花見、夏は海水浴、秋は温泉の、東亜慰安旅行で一緒に幹事もやったことがあるのだが、東亜に在籍10年の間に、一度だけ向島工場に見学に行ったことがある。師匠の名は、忘れてしまった。ヘルメットは、へら絞りというやり方で、銅の板から、カップをつくる。美術工芸品のようなものなのだ。出来上がりのヘルメットは工芸品だが、海で使われての耐用年数は、50年以上ある。ぼくが東亜潜水機に居たころ、明治何年というネームプレートのヘルメットが修理に入ってきた。明治18年ごろが日本のヘルメット潜水の黎明だから、歴史を生きてきた道具である。つくも神になっていたかもしれない。そして、来年潜水士の規則は幾分か変更になり、テキストも書き直されるだろう。そのテキストで、美術工芸品のヘルメットは、どんな扱いになるのだろうか。
そして、種市高校の「南部もぐり110年のロマン」(そういうDVDをいただいている。)はどうなるだろうか。150年になるだろうか。日本のヘルメット式が、日本の潜水の文化と言えるのかも知れない。そうしなければいけない。