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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1209 潜水士についてー2

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 1961年 僕は、社長から分厚い書類を渡された。潜水士テキストの草稿のコピーだった。
 そのころ僕は、195?年版の US.Navy のダイビングマニュアルをノートをとりながら読み終わったころだった。まだ、バインダーの版ではなくて、一冊になっていた。そして、自分の潜水について、減圧症についての知識は最先端のものだと自負していた。そして真面目でもあったから、間を見てではあったが、一ヶ月くらいかけて意見書を作って、三沢社長に出した。社長はそれを編集しているところに送ってくれたと思う。
 そして、出来上がってきた潜水士テキストを見ると、僕の意見は全く反映されていない。誤字を直したところも、そのままだった。その時のテキスト、数年前まで確かに持っていたのだが、今は消えている。
 印象に残っていて、今も覚えているのだが、濁った水の中を浮上してゆく時、上下の感覚がなくなる。つまり空間失調だが、浮上しているのか潜降しているのかわからない時、胸毛のそよぎでわかるなどと書いてあった。胸毛のない人はどうするのかと意見書に書いたが、これもそのままだった。米国海軍のマニュアルかぶれ、米国かぶれしていた僕は、日本の潜水士テキストは、ずいぶんレベルが低いなとおもった。

1957年に東京水産大学を卒業して、東亜潜水機に入れてもらった。1961年は、まだ、卒業して3年、潜水器業界のことも何も知らなかった。だから、潜水士の規則について、どのようにして生まれてきたのか知らなかった。今、調べている時間もない。だからここに書く事は、すべて僕の視点からの話でしかないが、減圧症について、そして減圧表については、東京医科歯科大学の梨本一郎先生が主導していたと理解していた。梨本先生とは、東京水産大学3年生の時の潜水実習でもお話を聞いているし、日本潜水科学協会でも、そして、その後も長いあいだ、目にかけてくれた。


 第一回の潜水士試験は、62年の3月だと思っていた。僕の年表には3月と書いてある。今調べてみると1月である。試験場は、神奈川県小田原の水産指導所で。そのころの相棒、バディだった館石さんと一緒に出かけた。1月26日の朝、受験手続をするため遅刻は許されない。館石さんの奢りで、前日から湯河原温泉に泊まることにした。僕が、受験準備の講義、教えてあげることが条件での奢りだった。夕方、湯河原に着き、温泉に入って、ご馳走を食べてしまうともう教える、教えられる雰囲気ではなくなってしまう。
 魚突きをして一緒に遊んでいたころの館石さん、魚を持ち上げているのは僕ではない。現在、千葉県伊戸にいる田中次郎


将来の希望、これからやりたいこと、などなど、夜が更けるまで語り合ってしまった。雑誌を作る話もその時にした。今のマリンダイビングの話だ。
そして、眠い目をこすりながら試験場へ。答案用紙に向かって、僕はできないのだ。その時まで、ダイビングの通常の常識があれば問題は楽勝で解けると思っていた。常識では解けない。ダイビングの常識では疑わしいことが出ている。実際のダイビングでは白黒がつけにくいことが多い。経験と判断で行動する。試験問題はちがう。マルかバツだ。例えば、「スキューバ潜水でも、潜降索は必ず必要だ。」というと、潜降索など使ったことがないスクーバダイバーは、×にしてしまう。
減圧表の問題も一般の潜水とは違った。普通、減圧表の質問は、30mに55分潜った時の減圧停止のスケジュールは、という問われ方をする。ここでは、一日に2回潜るとして、一回目は25mに70分潜るとして、2回目の潜水として18m潜れば何分潜れるか?という設問になる。

舘石さんは、受験に受からなかった。当然、前の日の湯河原の勉強会をやらなかった僕の責任である。僕自身も、減圧表の問題は出来ていなかった筈だから,かろうじてセーフだったのだと思う。だから、勉強会と言っても、しっかりと教えることはできなかっただろう。しかし、僕の責任だろう。舘石さんは僕を責めることはしなかったが、恨めしそうではあった。
舘石さんは、その後すぐに行われる補講にでた。これは、出席すれば合格というものであり、これも小田原の水産指導所で、水産大学の先輩である指導所の所長、宮田さんが講師で、宮田さんも東亜のお得意さんだったこともあり、僕も一緒に行った。これで責任をチャラにするつもりでもあった。
落ちて集まったダイバーの大半は漁業者だった。中には、自分の名前を書けない人が何人かいる。話したり、普通に付き合ってもこのことはわからない。減圧症の防止とは、そういうことだったのだ。
潜水士の制度が始まったその頃は、試験は未だ国家試験ではなかった。委託講習と委託受験であった。委託される団体は、例えば、日本潜水科学協会でも良かったし、株式会社東亜潜水機でもいい。水産試験場でも、漁業組合でもいい。労働基準監督署に届出て委託を受けて、講習と試験をすることができた。
委託を受けるには講師を揃えなければいけない。まず医師、免許を持っていればいい。労働行政の専門家、これは基準監督署のOBであればまず問題ない。それと潜水の専門家、これは、既に潜水士の資格をもっている人で、4年制の大学を出ている者、この3人のセットで、一泊二日ぐらいの講習と受験をやる。僕は潜水の専門家として講師になり、ドサ回りをやることになった。梨本先生のチームにも加えてもらって、何回かお供させてもらった。
梨本先生のチームは、梨本先生が酒飲み、若干酒乱でもあるので、大抵は酒盛りになる。漁業組合の組合長クラスが饗応する。僕のところあたりまで、酒を注ぎに来て、「先生、全員受からなかったら覚悟せらっしぇいよ。」そういう雰囲気だったのだ。
労働省側でも、まず何とかして、現在潜水している漁業者、港湾労働者の全員にこの資格を持ってもらわなければ、制度を着陸させることができない。この苦労、講師のアルバイトをやる僕らにとっては、都合の良い小遣い稼ぎの状況は、いろいろと形を変えるが、現在までも続いている。アルバイトではなくて、職業にすることも出来た。
免許制度、資格制度というものは、すべてこれと似たような形態をとる。レクリエーショナルダイビングでもおなじことだ。
なお、当時の潜水士資格は、女性は除外された。潜水労働には女性は適さないと考えて、女性を含めなかった。漁業者でも海女さんは、息こらえ潜水だから、高気圧作業には入らない。専門(プロ)の潜水労働者としては今も女性は希であろう。レクリエーショナルダイビングのインストラクターが潜水士に含まれることから、女性の受験も認められ、女性の受験が多くなった。

 

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