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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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1012 1957年 潜水部 ダイビングクラブ 誕生 下書き5

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        突堤とサジッタ


1957年 潜水部 ダイビングクラブ 誕生


 潜水講習は終了したけれど、アクアラング・スクーバで潜るチャンスがない。何とかして潜りたい。ダイビングクラブを作り、宇野先生を顧問にすれば、できるのではないか。前年、56年に奄美に同行した一学年上の橋本先輩、そのバディの竹下先輩、この二人は宇野先生のところで、小湊の磯で、サザエをテーマにした卒業論文を書くための潜水調査をしている。それに自分のバディの原田進を加えて、先生のところに相談に行った。なお、宇野教官は、前年度まで小湊の場長であったが、品川校舎で、鹹水増殖学教室を堀先生より引き継いでいた。なお、先生は、京都大学卒だったが、まだDr.ではなかった。先生の時代は、学徒動員で出征する世代であり、モーターボートのような特攻挺・震洋の訓練を受けていたので、博士取得のための研究をする時間などなかったのだろう。
 この後、竹下先輩等のフィールド調査と、僕らの調査の結果をまとめた研究で博士になられた。
 できあがったばかりの宇野教室の売り物はアクアラングだった。まだ、全国の大学で、アクアラングを使っているところは無く、行われつつあったダイビング協会の講習に若い先生が参加するなどして、拡大していきつつあった時代だ。そんなことで、ダイバーとして、研究スタッフとしての労働力確保が必要であったのだろう、クラブの結成は賛成、支援してくれることになった。
 一年下の二年生にも声をかけたところ、何人か集まったので、プールでボンベを使う練習を実施した。時はもう秋、プールの水は冷たく、5分で震え上がったが、とにかく体験はできた。なお、竹下先輩は水泳部でもあった。
 そして、大学祭、東京水産大学では海鷹祭にクラブで展示をした。竹下さんがつくった二眼レフ、白井さんから、何台かのハウジングを借りてきて、ボンベとレギュレーター、そして、竹下さん、白井さんが撮っていた水中写真を展示した。


 このクラブが日本の学生ダイビングクラブのはじまりだが、何も考えず、ただ自分たちだけでスクーバを使って潜りたいというだけだった。クラブの規約を真剣に考えたこともないし、その名称も水産大学ダイビングクラブだったのか潜水部だったのか、定かな記憶がない。記録がないので確たることが言えない。
  
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 これは、その時の記念写真だったと思う。
 左から、 原田進 生田国雄、浅見国治、岩橋義人、橋本康生、座っている須賀次郎、右端が竹下徹
 
 先輩から記述する。
 竹下徹先輩とは、本当に長いつきあいで、つい先頃亡くなるまで、陰に陽にお世話になった。このダイビングの歴史で、1950年代の部分、学生時代について使った写真の多くが竹下さんが撮影したものだ。
 自分が撮影した写真も本当に数多かったのだが、引っ越しの際に紛失してしまった。返す返すも残念だが仕方がない。今のように、二重三重に保管している状況ではなく、茶箱一つが紛失してしまえば終わりだった。
 竹下先輩は大学卒業後、海上自衛隊の幹部候補生となり、江田島を卒業した後、横須賀の水中処分隊の副隊長(掃海艇の艇長)呉の処分隊の初代隊長になる。その都度、海上自衛隊の潜水に大きな足跡を残している。退官後、三井海洋開発に入られ、JAMSTECのシートピアに出向されて、支援潜水部門の班長を担当された。


 橋本康生先輩は、1956年の奄美大島探検でお世話になっていて、一番仲の良い、優しい先輩だった。卒業後真珠会社に就職し、1987年に、ニュース・ステーションで牛深にロケに行った折りに、自分の泊まった宿まで挨拶にきてくれた。牛深の養殖場の場長になっておられた。それが先輩と会った最後だった。その後、何かがあり、行方が知れない。同級生の竹下先輩に訊いても言葉を濁すだけだった。


 原田進は、真珠会社に就職し、生涯親友で、年に一度は会っていたが、大酒のみであったために、癌が膵臓にでき、6?歳で亡くなった。

1学年下 二年生は
 生田国雄は、大分大学の教授になり、重金属による海洋汚染の研究に際して、博多湾での調査を手伝った
 浅見国治も、生涯の友で、上島さんとともに日本アクアランクに入社、共著で「アクアラング潜水」を書き、1967年には、日本潜水会を後藤道夫と僕と、三人が中心になって立ち上げる。
 心不全で亡くなってしまった。


 岩橋義人は、後に静岡県水産試験場の場長になる。一度だけ訪ねて行った。


 この写真には出て来ていないが、
 二年生に遠藤徹がいる。後にマスク式の旭潜研に入り、独立して「福岡潜水」設立、ウエットスーツの販売で成功した。全日本潜水連盟の九州支部の設立などずいぶん世話になった。残念だが、逝去。
 子息が、東京水産大学を卒業して、後を継いでいる。


 一年生は、笹原捷夫 木曜島で南洋真珠(白蝶貝の大粒な半球真珠)の養殖に従事して、木曜島の潜水のことを書いた「ワンガイ・ナッツ」を出版、帰国後ブリジストンに入社し、後に土肥の101の初代の所長になる。同じく一年の蜂屋禮も、南洋の真珠に就職した。
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 ※ダイビングクラブは潜水部になり2022年現在67代?先日は1954年の事故、追悼記念碑を一緒に見て、話し合った。
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 一緒に辰巳国際でスキンダイビング練習をしている。
 時は移り人は替わる。最近、100年を意識するようになった。自分の命は後須臾の間だけれど、100年が一区切りだ。愚かな独裁者のために、ハルマゲドンが起こるかもしれない。それでも、だからこそ、100年を考えたい。この下書きは、「ダイビングの歴史」の下書きだが、後、たった30年後にこれを見れば、100年の歴史が見通せる。
 写真は、第13代、僕がコーチのようなことをして指導していた時に、潜水部に作らせた、曳航式水中グライダーだ。
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