芝浦工業大学体育会スキューバダイビング部、創部45周年記念式典に呼んでいただきました。
今日はもう4日ですが、11月30日のことでした。少し、ブログ、空いてしまいました。隔日を目指していますが、10日分ぐらいまとめて書いておかないと隔日が実現しません。月刊ダイバーが年末進行とかで、原稿を11月末にと言われ、書いたのですが、編集の潮美にNGをくらいました。報告書みたいで、箇条書きになっている。文章が流れない。そう、この数日、箇条書きの企画書を書いていたので、その残像が頭の中にあるのでしょう。それで書き直し、ブログに手が出ませんでした。という言い訳です。
とにかく芝浦工業大学です。
呼んででいただいたので、ご挨拶はあるのかな、と思っていたのですが、正式には言われていなかったので、まあ、なんとか即興でしゃべれば、としたのが失敗でした。
今、即興となると、思い出話になってしまうのです。
僕は1957年に東京水産大学を卒業して、東亜潜水機という会社に入ったのですが、その東亜の専務の佐野さんが、芝浦工大のOBでした。27歳の100m実験潜水は佐野さんのおかげでできたものなのです。しかし、1968年、東亜潜水をやめることにしました。なんでも言うことを聞いてやるからやめるな、と佐野さんに説得されたのですが、海が呼んでいる。夢と冒険を求めて、野垂れ死にに至る道を選びました。その時、その佐野専務の息子の弘幸君がたしか小学校6年生でした。その弘坊が、やがて大学に入ります。お父さんの出た芝浦工大です。そして、できたばかりのスキューバダイビング部にはいります。彼が二期だということで、そして、それから45年が経ったのです。気の遠くなるような時間です。
佐野さんと僕
そして、時間がポンと飛んで、今の顧問の足立先生に辰巳の国際水泳場に学生の練習についてきていたところで出会いました。先生は、この15日に行われます全国水中スポーツ室内選手権大会に出ていて、その大会の実行委員長をやっているということで、どちらからともなく声をかけて、僕はちょうどJAUSを始めたときだったので、それに入っていただき、そして、この夏、2013年の夏にはJAMSTECのプールに部員全員の合宿前の練習に来ていただきました。
そんな話をしてしまったのですが、45周年のお祝いにもなんにもなっていない。もちろん、冒頭におめでとうございます、ぐらいは言いましたが、もっと何か気の利いた話ができたはず。それはまあ良いとして、結びの言葉が出なかった。「50周年も呼んでください。それまでなんとか僕も頑張っていきます。」ぐらいのことは言えなくては、と、即反省していました。
会そのものは、大盛会で何人かのOBに声をかけていただき、楽しく時間を過ごすことができました。居心地の良い会でした。
そして、佐野弘幸先輩の挨拶もあり、OB会のお決まりである歌、芝浦節というのを聞かせてもらいました。踊って音頭をとるこれも大先輩に全員が手拍子を揃えます。宴会の歌で、「女は入れないスキューバー」というところが、大きく響きました。そうです。昔の工大は女の子が希少価値だったのです。希少だから、女は入れないと見栄を張るわけですが、考えてみると、1967年に発足した僕たちの日本潜水会も当初、女はインストラクターにはなれませんでした。そういう時代だったのです。
歌の次に、顧問の足立先生が、後ろに現役を並べて、挨拶されました。今、関東学生潜水連盟で一番の大所帯だということです。現在の部にはかわいい女の子が何人もいます。でも、やはり、男が多いです。
なぜか、足立先生は、声を詰まらせていました。感動して、だろうと想像しました。そして、しみじみと、足立先生を顧問にして、芝浦工大はよかったなあ、と思ったのです。
先生は、顧問になったときはダイビングなど全くやらない、知らなかったのだといいます。それがダイビングを練習し、PADIのイントラにもなり、フリッパーの大会にも出るようになりました。
後で、足立先生は、フェイスブックで、挨拶が満足にできなかったと言い訳をされていまして。40周年から45周年までの5年間、無事故で過ごそうとするプレッシャーは大きく、それが、45周年でホッとして、安堵の涙だったということです。
この前のシンポジウムで、足立先生は芝浦工大の部活について、監督のこれもOBの北川さんとともにお話をしてくださったのですが、足立先生はスピリッツについて、北川さんは技術について、話されました。印象に残っている言葉は、大学生は子供(高校生)から社会に出るブリッジで、その教育にスクーバダイビングが大いに力になるという言葉でした。
僕も、東大の海洋調査探検部のお世話をしていたことがあり、何が悲しくて東大まで入って、危険なダイビングなんてやるのだ、と思ったものでした。ぼくが何時もついていてやれれば、よいけれど、それもできない。思い悩んだのですが、しかし、ダイビングを通しての、人間的な成長が見てとれるので、やはりやらなくてはと思ったものでした。そして、何よりも、だからこそ、学生の潜水部で事故が起きてはいけないのです。
そして、JAUSも学生の潜水活動が安全に行われるように出来るだけの手伝いをします。理事会でも、なぜ、学生にそんなにこだわるのだ、彼らはもう大人だし、甘やかせることはないのだ、という意見もあります。でも僕はこだわります。ようやく付き合い方がわかってきたところ、なのですが、もう僕の人生はあと少しです。なんとか、付き合い方と学生の活動を大事にすることが伝統になるように出来うる限りの努力をしたいとおもっています。
今度の2月2日のシンポジウムでは中央大学の海洋研究会の藤島監督が発表してくれます。中央大学もこの前、たしか40周年で呼んでいただきました。中央は、亡き仲間の鶴町が副会長をやっていたクラブです。早稲田の水中クラブもJAMSTECのプライマリーコースに来てくれています。学習院の宮崎監督も、足立先生、北川監督、その流れで、何かが生まれるような希望を持っています。