ところで、孀婦岩に行こうとして、台風が発生し、鳥島の島陰で停滞している、第五稲荷丸はどうなったのだ。孀婦岩には、行けたのか、それとも引き返したのか。
鳥島で、何日ぐらい台風待ちをしていたのかわからない。今年、2008年、この前通り過ぎていった台風7号は、ずいぶん長い間、フィリピンの頭の辺りでうろうろしていた。だから、あの時の鳥島での待機も結構長かった。
食事の残りは、漁船の上の生活では、思い切り良く全部きれいに捨ててしまう。残しておいたらたちまち腐ってしまう。腐ったものを食べて下痢をするのは怖い。全部洗い流すように捨てる。海洋投棄だって?プラスチックとか、ポリ袋はまだ貴重品だったし、捨てない。食べ物の残りは、海にまくと、あっという間に魚が集まってくる。20cmほどのササヨ(メジナの類)がまるで池の鯉に餌をやるように集まってくる。トローリングで大物がかかった時に掬い上げる大きな網で、伏せるように掬うと、いくらでも採れる。しかし、アンモニアのような臭みがちょっとあって、あまりおいしくない。この臭みを解消したのが、小笠原名物の島鮨だ。醤油に一晩漬けて置く。いわゆるズケだ。ワサビではなく、洋辛子で握る。大好物だけれど、自分で作るようなことはしない。ササヨなんて食べなくても、食べるものはたくさんある。船長が、ちょっとタンクを貸してと言って、背負って潜っていった。素もぐりはするけれど、タンクは初めてだと言っていた。急浮上して空気塞栓にでもなったら、船を動かす人がいない。。機関長がいるからいいか。殺しても死にそうではないから、大丈夫だろう。スカリに一杯、大きなエビを採って来た。いくらでもイセエビの類がいるのだ。それって密漁ではないのか。誰も来ない、無人島だ。売るわけではない、自分たちで食べる。誰も、採ることの無いイセエビだ。どんどん大きくなって、そのうちに、イセエビの天寿が来て死ぬ。もしも、この島に漂着して、ロビンソンになったら、密漁だろうか。どうでも良い。何も考えない船長が採ってきてくれたのだから、何も考えないで食べよう。
目の良い赤間君が立ち上がる、カメだ!カメが夕暮れの凪ぎの水面をぱたりぱたりと泳いでくる。骨の髄までハンターである赤間君は、銛を探し始める。まだ、銛の用意ができないうちに、カメは船に近づき、コツン!と船にぶつかった。半分眠って泳いでいたのだろう。目を覚まして潜っていってしまった。
あまり大きくないカメだった。あれはたしかタイマイだった。と、赤間君がぼやく。鼈甲のとれる高価なカメである。現在はワシントン条約で保護されている。逃がした魚は大きい、逃がしたカメは鼈甲だ。
夜、撮影用の水中ライトを水の中で点灯すると、トビウオが集まってくる。カメラを持って水に入り、撮影する。光束に突っ込んでくる30cm大のトビウオだ。トビウオだけではなくて、そのうちに何でも集まってくる。
その後、ニュースステーションをやるようになったが、何も撮影するものが無いと、夜の海にライトを点けて潜る。潮美のレポートと顔で、二分ぐらいは持つシーンが撮れる。その潮美はまだ大学一年生、どこかの海で、耳が抜けなくて呻吟している時代だ。
早朝、突然船が揺れだし、エンジンの音が響いた。
第五稲荷丸が動き出した。昨晩寝る時には、船長は何も言っていなかった。台風が北上を始めて、八丈島に逃げるのか。起きだして、船長のところに行く、当然みんな集まっている。船は孀婦岩に向かっている。聞けば、姉妹船の第十五稲荷丸が、今、孀婦にいるそうだ。思い切って突っ込んでトビウオ漁をしているらしい。二隻で助け合えば、少しは心強いと思ったのだろうか。南下することにした。
このまま走り続ければ、今日一日、今晩いっぱい走り続けて、明日の早朝には、孀婦に到着する。
夜、走りながら、全員で明日の潜水の作戦会議というのをやり、撮影した。単なる撮影の一シーンだけれど、真剣に打ち合わせをした。
孀婦岩には東側に、ちょっとした棚がある。その棚に巨大な2mクラスのイソマグロがいるはずだ。それを狙って赤間さんが潜る。もちろんスキンダイビングで潜る。銛が刺さる瞬間はなかなか撮れないだろうが、2m級のイソマグロと、水中で引き合い、抱え込んで水面に出てくるまでのシーンはスペクタクルだろう。撮り甲斐がある。
その頃の僕の鮫に対する知識は、鮫は何をするかわからない。あの、小さな脳で何も考えていないかもしれない。前に居るものにはすべて噛み付き、身体をスクリューのように回して引きちぎる。これは、クストーの沈黙の世界で見た鮫の姿なのだが。僕は、オーストラリアの鮫狩りで有名になった、ベン・クロップの著作を訳している。ベン・クロップは、ポップ・ガンという、散弾銃の弾を銛の先に付けたスピアで、当たるを幸いにすべての鮫を殺して、その有様をフィルムに取り、全世界に売って成功した。日本でも何回かテレビで放映された。とにかく、鮫は悪者であり、殺されれば、観客は手を叩く。特に日本人は鮫を恐れる。
赤間さんは孀婦岩で、獲物のマグロを抱えて、鮫に獲物を取られないように防いだ経験がある。マグロを前に抱えて、背を鮫に向けて隠した。背中から噛まれるとは思わないのだろう。獲物を横取りされようとした時、獲物を手放して、とろうとした奴と闘うか、獲物を隠すかだけれど、手放せば他の鮫にとられてしまう。隠すしかない。海の中だから、隠すとすれば自分の身体の陰しかない。
鮫にカメラを向けていれば大丈夫だろう。赤間さんの背中を噛まなかった鮫がカメラを噛むはずがない。もしも噛もうとしたら、すごい映像だ。そして、カメラには歯が立たず、逃げてゆくだろう。
今の僕は、その後鮫についてずいぶん勉強し、経験も積み、鮫の本を出そうとしているくらいだから、当時とはまるで違う考えを持っている。しかし、孀婦岩の時は、そのように考えた。
まずカメラを食べさせよう。
実は、カメラを噛ませて助かった経験がある。鮫ではなくて、大きなモヨウフグだった。60センチ以上あったと思う。大きなフグだ。撮影のために接近しようとしたら、突然のように怒って襲撃してきた。撮影していた8mmシネカメラのグリップで受け止めた。カチンと音がして、アルミのハウジングに歯型がついた。フグはきっと痛かっただろう。しかし、もしもハウジングではなくて、腕で受け止めたら、齧られたにちがいない。
フグと鮫ではだいぶ違うが、まあ良いだろう。
ダイバーという人種は、決して自分が鮫に食われるとは思わない。日本の鮫は、日本人ダイバーを食わないと思っている。それが、大間違いであることが、後年になってわかるが、少なくとも、僕は食われない。僕が食われないことは間違いではなく、今でも生きている。
孀婦岩に到着した。僚船の第15稲荷丸は、アンカーを入れて、大揺れに揺れている。もちろん、こちらの第5稲荷丸も揺れている。波高は2.5m以上だろう。
ディレクターの山崎さんが心配そうに青い顔をしている。彼も後年とても偉くなった。プロデューサーの大橋さんはもっと偉くなって、紅白歌合戦で、優勝チームに優勝旗を渡していた。
それはそれとして、山崎さんは「須賀さん、大丈夫ですかね、どうします。」波の心配をしているのだ。どうすることもできない。潜るだけだ。
歩兵の歌というのがある。愛唱歌である。
「バンダの桜は、襟の色、花は吉野に嵐吹く、大和男子と生まれなば、散兵戦の花と散れ」麻雀をやっていたころ、危険牌を切るときに歌った歌だ。
鮫の海に飛び込んだ。
流が強い、大きなカメラを押し、ケーブルを曳いて泳ぐ、当時のカメラは、VTRを船の上に置いている。周囲は鮫の群れで詰まっている。が、とにかく、赤間さんを追うだけだ。彼は空身でありスキンダイビングだから、タンクも背負っていない。ケーブル捌きを頼んでいる、八丈島の長浜君(困った、正確な名前を忘れた。タクシー会社の息子さんだ。)は片手に銛を持ち、片手にケーブルを掴んで懸命に泳いでくれる。後から僕を噛もうとする鮫がいたら、彼が追い払ってくれる。ことになっている。彼の後ろにはだれもいない。自分でなんとかするだろう。僕は前はカメラ、後ろは彼が守ってくれる。
鮫のことなどかまっていられない。とにかく流に逆らうのが精一杯だ。鮫よりも流れが問題だ。なんとか、孀婦岩の陰までたどり着いた。その時、赤間さんの方で魚の黒い影が見えた。
赤間さん曰く、「突き損じた。」
僕がテラスに来るのを待ったのだけれど、逃げてしまうといけないので、突いた。体の後ろの方を突いたので、銛がはねられてしまった。
もう、他にイソマグロは、居ない。しかし、ハンティングだ。思うようには行かない。
次の目標として、鮫を撮ろう。孀婦岩の周辺は、水深10mほどでテラスになっている。そのあたりにイソマグロもいたのだが、鮫も集まっている。鮫の種類は、後から思えば、いわゆるリーフシャーク、ツマグロとかツマジロの類だったと思う。立派な人食いである。しかし、人食いと認定されている鮫も、ほとんどの種類は人を襲わない。死んだ人が沈めば、もちろん食べるだろう。生きている人を襲うのは、グレートホワイト、ブルシャーク、タイガーシャークで、後に、それらを追い求める旅にもでるのだが、孀婦岩当時は、なにもわからない。2-3mクラスが真正面から向かってくれば、体をよけてしまう。避けながら横から撮る。後から、山崎監督に言われる。「須賀さん、カメラに真正面から噛み付いてくるカットが無いですね。」僕が憮然としていると、「いや、いや冗談です。」今ならば、こんな鮫、なんとも思わないのだが、ファーストコンタクトの当時としては命がけのつもりである。
次に、孀婦の周囲に軍艦の観艦式のように群れてゆっくり泳いでいる鮫、これはやや小さく、1-2mサイズにカメラを向ける。鮫の群れの中を突っ切って潜ってくる赤間さんも撮った。これで撮影終了だ。潜水時間は30分も無かったと思う。
船に上がると同時に、全速で孀婦を後にして、八丈島に逃げ帰る。
台風は北上しては来ず、中国の方に流れた。
帰路の航海は穏やかであり、曳き釣りの針に大きなカジキがかかって、引き揚げたり、カマイルカの大群に遭遇したり、無事に八丈に戻ってきて、東京に帰ってきた。
ラッシュを見た山崎さんは、どうしても、赤間さんが何か魚を射つ瞬間の画がないとまとまらないという。それもそうだ。
再び八丈島に来て、魚突きのシーンだけを撮った。イソマグロは望めない。大型のカンパチならば、八丈島周辺で撮れる。
僕がカメラを構えて水深15mラインを行く。赤間さんは水面を泳ぐ。
目の下、水深20mあたりにカンパチの群れが来た。僕は泳ぎを止めて、レギュレーターの排気を少し、上を向いて出す。気泡がきらきら上がってゆく、カンパチは気泡を餌の小魚だと思って下から上がってくる。上から赤間さんが降りてきて突く。僕は、30歳でダイビング指導団体、日本潜水会を発足させた時、水中狩猟をやめることを決議し、水中銃を置き、カメラに持ち替えたが、潜水の基本的教養は魚突きだ。だから、こんなチームプレーができる。
番組は、NHKの夏休み番組として放映され、20%を超える視聴率を取った。その頃、僕はついていたから、撮るものは皆視聴率が良かった。
その番組を見た潮美は言った。「お父さん、こんな魚突きの番組を撮っていると、若者の支持をなくすよ。」
※ そして、その年の秋、潮美たちの秋合宿で同級生が死亡した。部活は一時停止になり、その復活に努力し、なんとか復活させて、現在まで続いている。