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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0113 ダイビングの歴史102 学生のダイビング2

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 ダイビングの歴史101を書いてみて、これは大変、まずテキストで下書きをする。これを僕はキングジムのポメラという小さい、テキスト専用のワープロで打っている。下書きをしながら、資料を参照して、確認したり、写し取ったりする。
 それを、およその一回分ぐらいずつ、PCにとりこんで、推敲するとともに、使う写真を探し、選ぶ。
 自分の視点で書くということに決めている。これまで、テキスト、マニュアルのようなものを書くことが多かったので、内容が正しくなくてはいけないと考えていた。しかし、この世に、正しい視点などというものがあるのだろうか。所詮、それぞれの人は自分の視点、自分のものの見方で、見て、そして判断している。
 たとえば、ここで法政アクアのことを書いたとして、法政アクアのOBである娘の須賀潮美の視点と、僕の視点は天地ほど違っていることだろう。それが、どちらが正しいかなど、言えるはずもない。僕は潮美の視点で書いたものを読みたい。また、1982年のそのときの僕の視点と、今の視点も同じであるはずもない。昔のことは、記憶と、記録をたどるだけだが、その見方もずいぶん違う。
 それで良いのだと思う。別の人間が別の視点から真剣に見た、考えたものは、知る価値がある。
 ところで、こんなことを書いてどうするのだろう。どう使うのか。出そうとしている本、ダイビングの歴史には、とうてい収録しきれない。
 でも、昔と違って現在は、切り捨てられる下書きであっても、ブログという形で人に見てもらうことができる。見た人が、これは違うとか、同意とか、面白いとか思ってもらうことができる。


 東京水産大学潜水部

 卒業以来、自分のことで精一杯、潜水部の現役と一緒に活動したりする機会は、あんまりなかった。
 第10代の石川文明君のところまで来たが、彼とのつきあいは彼の卒業後、今、日本水中科学協会でお世話になっている白井常夫氏の経営する、当時として、おそらく東京で最大のダイビングショップであったリックに勤めてからである。
 11代の島義信君は、マスク式潜水の旭潜研に入社して、ウエットスーツの担当になったが、これは、商売の上での競争相手であった。
 この11代あたりまでの10年間で、最初はただ集まっただけのクラブが、潜水部と呼べるような、部の形ができた。僕はそれには、関わっていない。「大学はでたけれど」という言葉もあった時代、就職も難しかったし、やっと拾ってもらった東亜潜水機では、アクアラング事業を一から組み上げなくてはならなかったし、100mを目指す実験潜水も企て、潜水部のこと、なにもしてあげられなかった。ただ、ダイビング器財の製作販売に携わったわけだから、相談にきてくれた場合にはできるだけのことはしたいと思っていたし、連絡が途絶えたわけではないが、具体的にこれといった何かをした記憶がない。
 だから、その時代の潜水部の後輩たちは、毎年、部を創るような働きをしたのだろうと想像する。
 が、とにかく、この10年の間に、学校が認める部活動になった。
 そして、1968年に日本潜水会をつくり、法政の加藤芳正君が学生で指導員になった。もう一人、学習院の野田君のも学生だった。学習院は 1967年の創部である。
 ただ、日本潜水会は、その最初の会議で、もしもの場合、学生では責任を負えないだろうと、指導員は25才以上の男性と定め、学生、女性は準指導員までと決めたので、学生である指導員はこの2名で打ち止めになる。後にこの制限はなくなったが、女性はともかくとして、学生については、議論があると思う。後年、関東学生潜水連盟でSAI スチューデント・アシスタント・インストラクター(SAI)という制度を作ろうとして、躊躇して実現しなかったのは、その資格を持つものが、責任者になり、そして、死亡事故が起これば、その責任を一身に背負う可能性があると思ったからであった。このことについては、後で述べる。
 
 1968年、日本潜水会を創り、法政の加藤君が指導員になり、法政アクアの銭元君等が一級を受講したことから、母校の東京水産大学(現海洋大学)にも、一級を受けるようにアプローチした。結果、来てくれたのが、第12代、1966年入学だから、その時3年次になる 佐藤英明君、船水欣一君だった。二人は、指導員の研修と一緒に受講してもらって、助手のようなことまで、させて、資格は一級だった。
 そして1967年入学の第13代 僕は事実上の監督、コーチのような気持ちになり、小湊での合宿などの指導をした。事実上のということは、大学の認めている部活に監督という制度が無いことから、部員たちも、先輩としては認めても、監督、コーチとは呼ばない、考えなかったからである。監督と先輩とどちらが恐ろしいかといえば、水産大学の場合優劣は付けがたいが、とにかく、今、2020年に至るまで、水産大学、海洋大学には、学校が認める正式な監督もコーチもいない。
 
 僕が教えた13代は、ダイビングについて、黄金世代だった。
 高橋実(1970年にスガ・マリン・メカニックを作った時に来てもらって、一緒にはじめた。7年勤めて、退職して自分の会社「海洋リサーチ」を作った。この会社は、スガ・マリン・メカニックよりも成功している。)
 後藤一郎(プロダイバーになり、後に「潜海」という会社を立ち上げ、成功して、金持ちになったが、残念なことに、昨年、亡くなってしまった。)大掛俊二、奥川均のバディは、そろって、海洋研究開発機構に行きアクアノートになった。大掛は、400mの潜水メンバーに選ばれたのに、単車の事故で、命を落としてしまう。奥川は、撮影会社を作り、僕のスガ・マリン・メカニックよりも、業績をあげたが、早くに病死してしまう。
 そして、和久井敏夫は、芙蓉海洋開発にはいり、深海潜水球のパイロットになるのだが、その潜水球が故障して、たまたま、体調が悪く、乗っていなくて、命を拾う。
 その和久井君が、関東学生潜水連盟結成時に、副委員長になる。委員長は法政の銭元君、二代目の委員長が和久井になる。それから、13代の佐倉彰は、学連の書記になっている。発足時の学連は、法政と、水産大学でかためていた。
 第12代の 佐藤、船水から、13代に至る流れの中で、監督?のつもりの僕は、みんなでまとまって、力を合わせて何かをやる目標が必要と考えた。
 2020年の今も、学生のクラブは、何か目標が必要と考えている。今はリサーチ・ダイビングと、ライン調査をターゲットにしようとしている。ライン調査は安全性が高いので、新人の訓練にいい。
 ライン調査についてだが、1957年は竹下、橋本バディが、千葉県小湊実習場でのライン調査、1958年には、須賀・原田のバディが、伊豆大島の、いずれも宇野先生の研究テーマであるサザエのライン調査で卒業論文をかいている。なぜ、潜水部のテーマがライン調査にならなかったのだろうか?
 ライン調査はプロの調査潜水の仕事であり、遊びの要素が強い大学のダイビングには適合しないと考えたのでは、ないだろうか。今、2020年でも同じ議論がある。ラインを引くことは安全の確保にも役立つのだから、1968年にもラインをやれば良かった。
 とにかく、ライン調査ではなくて、別の目標を考えた。ヒントは映画「海底の黄金」(1955)だった。巨乳で人気をはくした女優、ジェーン・ラッセルが主演で、カリブ海での宝探しをする。テーマ音楽の「セレソ・ローサ」もヒットした。
 宝を積んでカリブ海で沈んだ帆船時代の船から黄金を引き上げるという宝探しの定番なのだが、その沈船を探すために、水中ソリ、ソリと言っても、板切れ一枚なのだが、板切れに捕まって、どこまでも透明なカリブの珊瑚礁の上をビキニのジェーン・ラッセルが滑走する。やってみたい。どこでやろう。奄美大島の大島海峡だ。1956年、僕は白井祥平先輩の奄美探検隊に参加して、帝国海軍の駆逐艦があるという情報を聞き発見しようとした。これは、結局のところガセネタだったのだが、1967年には、まだあると思っていた。
 もう一つのヒントは、その頃、アメリカの雑誌「ポピュラー・メカニック」を購読していて、その雑誌に、木の柱に翼を付けたような、やや進化した水中ソリが載っていた。これだ、と思った。これを潜水部の探検としてやろう。すばらしいアイデアだ。
 これを12期の佐藤英明君に話した。佐藤君も「やりましょう、やりたい」ということになった。
 佐藤君は、一期上、11代の大塚優君に話した。大塚君の実家は、鉄鋼場で、ここで大塚君設計の水中飛行機ができあがってきた。残念なことに、これができあがって来た時には、大塚君は卒業していたし、佐藤君も卒業期を迎えていた。
 さて、大島海峡での駆逐艦探しだが、当てにしたのはテレビ局だった。もう少し時が後になれば、水曜スペシャルでできただろうが、まだ僕は東亜潜水機にいる。63年には100m潜水をやったり、68年には日本潜水会、その上に大島海峡だ。東亜潜水機の夏は、忙しい。スピアフィッシングに反対しながら、「シャーク印」の当たっても大きな魚には、跳ね返される水中銃を2000丁も売らなくてはならない。そんなこんなで、結局1999年に、わがままいっぱいさせてくれた大恩ある東亜潜水機を退職してしまう。後から考えれば辞めなくても良かったのだが、智恵がなかった。傘下の別組織にしてやりたいことをやればよかった。
 とにかく、そんな混乱の中で、100mをやったTBSに企画書をだした。
 大阪の朝日放送が乗ってきてくれた。そのころは、まだ朝日放送と言いながら、東京のキーは、TBSの時代で、TBSへ出した企画書が回って行ったものだった。
 ただし、予算がないので、大島海峡は無理だ。結局、妥協して八丈島にきまった。
 佐藤英明君は、潜水部50年記念誌にこの水中グライダーのことを書いているが、放送された記憶が無いという。可哀想に卒業して生活に追われて潜水部のことを振り返る余裕が無かったのだ。今のように、メール、SNSの無かった時代である。
 でも、僕もどのチャンネルでいつ放映したか記録がのこっていない。ビデオ録画などできない時代だが、朝日放送のディレクター、お世話になったのに名前を失念している、が、フィルムをくれた。そのフィルムをビデオに直したものがある。これが水産大学(東京海洋大学)60年の唯一の映像記録であり、50周年、60周年には上映している。
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 八丈島で水中ソリ、いや、良く飛んだので、水中グライダーと呼ぶことにした。福座、二人乗りの大型?機、柱に跨がる単座は、操縦性が良く、戦闘機のように横転もできた。
 後藤一朗は、とっぽい奴で、そのころ舘石さんの水中造形センターに入社して、退社し映像プロダクションをつくっていた第9代の黒川治雄のところにこのトンボ(と呼んでいた)を売り込んで、番組をつくってしまった。後輩たちのやることだから、文句も言えない。役に立ってよかったね。と言うしかない。黒川君はのちに、雑誌ダイビングワールドを発行する。僕も、ずいぶんお世話になった。
 潜水部として、このグライダーをシンボルのようにして、年々改良を加えていけば、やがては自走するように作れる。自走にしなかったとしても、このような曳航システムは、調査の道具として有効だから、実績になったのではないか。
 しかし、前述したように、僕は東亜潜水機を辞めて、13代の高橋実と一緒にスガ・マリン・メカニックをつくる。また、沖縄海洋博のダイバーズフェスティバルにとりかかり、潜水部どころではなくなり、グライダーは、大塚君のところに戻して、処理、朽ち果てさせてしまった。
 このごろ考えると、グライダーに乗っても、息を吐き出して浮上すれば、肺の圧外傷にはならないだろうが、浅いところからの浮上速度は早くなる。続けていたら、減圧症になる者が出たかもしれない。吉凶は糾われる縄のごとしだ。
 水産大学の部、続く
 ※ダイビングの歴史101を書いてみて、やがて、出版のことを考えているからだろうか、飛ばしすぎている。
 出版は出版として、学生のダイビング、どうせ書くならば、じっくり書いても良いのではと、思いはじめている。


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