「海の世界」で80年までなんとか、行くつもりだったが、75年、5月に「ダイビング・ワールドが創刊する。
残念なことに、ダイビング・ワールド、75年は、5月創刊と、11月しかない。隔月だったから、7月と9月がないわけだが、とにかく5月創刊号
黒川君はは潜水部の近しい後輩だし、田中龍彦は、親友、大竹憲一は、高校時代から、東亜潜水機に来ていて、「海の世界」で活躍していた。一番若い大竹が亡くなってしまっていたことを、この前聞いた。そんなことで、1976年には連載をさせてもらった。
まだ、大瀬崎が有名にならない前のことだ。
もしも、事故が起こらないで、続いていたらどうなっただろう。
海底ハウスに長く居たら、今だったら、長い半飽和時間の窒素をため込んで、減圧症になっただろう。この「今だったら」というところが肝要、昔だったから、減圧症にかからなかっただろうか。ましてや、ここで潜って東京に戻るには、御殿場という高所を越えていく。
当時、ダイバーだったら、使ってみたくなる。
使ってみたら、命が無かったかもしれない。