ビデオ撮影、フィルムでも動画の撮影は、カメラと三脚は一体のものつまり三脚がついてこそのカメラである。しかし、それは陸上撮影の常識であり、水中撮影では別とかんがえた。特に魚のように自由に泳ぎ、水中を飛ぶダイバーとしては、三脚を担いで泳ぐなんてことはかんがえられない。
ここで、ちょっと視点を変えて、水中撮影をするために、カメラマンにダイビングを教えて撮影させるべきか、ダイバーに撮影を仕込んで水中カメラマンにしたほうが、よいかという問題がある。どちらも一長一短がある。カメラマンにダイビングを仕込むならば、しごきと思われるほどのトレーニングをさせなければ、ならない。そして、そのトレーニングを継続させなければならない。NHKをはじめとして、いくつかの新聞社は、そのトレーニングを続けており、水中撮影班として活動している。初期、1967年から1980年代までは、僕もNHKの撮影班の訓練をてつだった。第一世代のNHK水中班は、日本潜水会のしごきに近い訓練をうけさせられている。
ダイバーをカメラマンにするのはそれほど、難しくない。潜れさえすればだれでもそこそこの絵はとれる。結果として、どちらが良いかといえば、それはその人のセンス、能力の問題だからどちらとも、言えない。しかし、両者のスタイルのちがいだけはある。
ダイバー上がりの水中カメラマンは昔でも、足を海底に着けようとしなかった。陸上のカメラマン上がりの水中カメラマンは、足をしっかり海底に着けて、立つかあるいは膝を折り敷いて、カメラをがっちり構えて撮ろうとする。陸上の撮影ではクレーンショットというのがある。チューリップクレーンと呼ぶ、チューリップの花が開いたようなクレーンの先にゴンドラがあり、これにカメラマンが乗って、もしくはゴンドラはなくて、チューリップの先にカメラを載せて、油圧で動かす。カメラはしっかり固定されて、上下左右三次元の動きができる。僕は水中撮影の理想はこのクレーンショットだと思って修行した。水中に浮いていて、カメラは固定されていて、上下左右に振れないで泳ぐ。
トラックという撮影もある。レールを敷いた上にトロッコのような台車を載せてカメラを載せて静かに動かして撮る。これもカメラはスムースに、微動もしないで前後左右に動く。これも練習した。今、水平姿勢でフロッグキックで泳ぐが、昔の僕は絶対にフロッグキックはやらなかった。動きに段差が出る。よほどの達人でないと、トリムを取って、カメラをぶれさせないで動くのは難しい。昔の練習の成果が残っている僕には無理だ。
少し脱線したが、三脚を使わないで、三脚を使ったように撮るのが望みで、練習を重ねていた。
ところが、どうしても三脚を使ってカメラを固定しなければならない撮影がやってきた。電通映画社の神領さんというカメラマン上がりのプロデューサーと仲良くなり、一緒に仕事をするようになった。その発端は、宮古島のニーヨンノースの渡真利さんとの撮影だった。僕はスケジュールが塞がっていて行かれない。代わりに助手の鶴町君をはじめてカメラマンとして出した。しかし、その後から宮古に行く撮影が出来て、最初の縁で何回も渡真利さんのお世話になることになったが、その仲立ちをした神領さんが、電通のアイ・エクスピアリアンスというシリーズの撮影を始めた。これは、カメラを三脚の上に載せて、固定して、動かさずに60分テープを回す。カメラは微動だに動かず、被写体が動いて行く。だから、落ち着いてみていられる。まだテレビは液晶ではなくて、薄型と言ってもずいぶん奥があったが、それでも大画面、と言ってもこれも34-32インチのテレビを前にして、レザーディスクを使って、再生する。ソファーに座ってゆったりとお酒でも飲みながら見るというのがコンセプトだった。今で言う環境ビデオというのだろうか。その水中を、知床、摩周湖からの地下水が噴出する原生林のなかの神の子池で撮影しようということになった。この神の子池についたは、月刊ダイバーの12月号にちょっと書いた。とにかく、この世のものとも思われない、原生林の中にぽっかりと開いたどこまでも澄んでいるように見える青い眼のような泉だ。僕は、この泉にこの撮影のために、一年間、毎月通うことになった。助手、ジムニー、ビデオエンジニア、ディレクター、そしてカメラの僕、4人編成で斜里に、毎月、少なくとも3日は泊まる。往復を入れて、毎月、1週間はそのロケをした。今振り返ると想像もできないような時代だった。なんであんなにお金が使えたのだろう。
僕はこの泉の中に三脚を立て、当時の最高級のビデオカメラ、池上の79Eというカメラを載せる。ハウジングも入れると陸上での重量は50キロ、水中では1キロ以下だが、質量は50キロある。三脚を立て、ファインダーを覗いて、1時間の継続撮影が出来るように画面を作る。自然の情景を切り取る。1時間のうちには、太陽が廻る。光が原生林を通して差し込むから光と影が廻って行く。風が吹けば水面にさざ波が出来て、底の白い砂に光の波紋を投げかける。たくさん泳いでいるオショロコマ(カラフトイワナ)が、なぜわかるのだろう。水底に居ながら、水面の上を飛ぶ虫を見つけるのだ。するするっと泳ぎ上って、水面の上に跳ね上がって虫をとる。信じられないような光景だ。魚を釣るのにフライを水面に落としたりあげたりして魚を誘うのは、これだな、と思った。とにかく莫大な量のテープを回した。そのころのビデオレコーダーは、テープレコーダーのような1インチ幅のテープでレコーダーとカメラは有線でつながっていて、上でモニターを見ながら回す。値段も安くないから、どこに三脚を立てて、どんな画面を切り取るかがカメラマンの命だ。僕はダイバーだから、それほど上手なカメラマンだとは思っていなかった。しかし、カメラマンならば死んでしまうような撮影でもできるのが売りだった。しかし、このエクスピアリアンスで、僕のカメラマンとしての修業が出来た。僕は決して下手ではないという電通での評価をもらった。アクションには自信があったから、これでなんでも来いという気持ちになった。この後が1986年からのニュース・ステーションの撮影になる。
ここで、ちょっと視点を変えて、水中撮影をするために、カメラマンにダイビングを教えて撮影させるべきか、ダイバーに撮影を仕込んで水中カメラマンにしたほうが、よいかという問題がある。どちらも一長一短がある。カメラマンにダイビングを仕込むならば、しごきと思われるほどのトレーニングをさせなければ、ならない。そして、そのトレーニングを継続させなければならない。NHKをはじめとして、いくつかの新聞社は、そのトレーニングを続けており、水中撮影班として活動している。初期、1967年から1980年代までは、僕もNHKの撮影班の訓練をてつだった。第一世代のNHK水中班は、日本潜水会のしごきに近い訓練をうけさせられている。
ダイバーをカメラマンにするのはそれほど、難しくない。潜れさえすればだれでもそこそこの絵はとれる。結果として、どちらが良いかといえば、それはその人のセンス、能力の問題だからどちらとも、言えない。しかし、両者のスタイルのちがいだけはある。
ダイバー上がりの水中カメラマンは昔でも、足を海底に着けようとしなかった。陸上のカメラマン上がりの水中カメラマンは、足をしっかり海底に着けて、立つかあるいは膝を折り敷いて、カメラをがっちり構えて撮ろうとする。陸上の撮影ではクレーンショットというのがある。チューリップクレーンと呼ぶ、チューリップの花が開いたようなクレーンの先にゴンドラがあり、これにカメラマンが乗って、もしくはゴンドラはなくて、チューリップの先にカメラを載せて、油圧で動かす。カメラはしっかり固定されて、上下左右三次元の動きができる。僕は水中撮影の理想はこのクレーンショットだと思って修行した。水中に浮いていて、カメラは固定されていて、上下左右に振れないで泳ぐ。
トラックという撮影もある。レールを敷いた上にトロッコのような台車を載せてカメラを載せて静かに動かして撮る。これもカメラはスムースに、微動もしないで前後左右に動く。これも練習した。今、水平姿勢でフロッグキックで泳ぐが、昔の僕は絶対にフロッグキックはやらなかった。動きに段差が出る。よほどの達人でないと、トリムを取って、カメラをぶれさせないで動くのは難しい。昔の練習の成果が残っている僕には無理だ。
少し脱線したが、三脚を使わないで、三脚を使ったように撮るのが望みで、練習を重ねていた。
ところが、どうしても三脚を使ってカメラを固定しなければならない撮影がやってきた。電通映画社の神領さんというカメラマン上がりのプロデューサーと仲良くなり、一緒に仕事をするようになった。その発端は、宮古島のニーヨンノースの渡真利さんとの撮影だった。僕はスケジュールが塞がっていて行かれない。代わりに助手の鶴町君をはじめてカメラマンとして出した。しかし、その後から宮古に行く撮影が出来て、最初の縁で何回も渡真利さんのお世話になることになったが、その仲立ちをした神領さんが、電通のアイ・エクスピアリアンスというシリーズの撮影を始めた。これは、カメラを三脚の上に載せて、固定して、動かさずに60分テープを回す。カメラは微動だに動かず、被写体が動いて行く。だから、落ち着いてみていられる。まだテレビは液晶ではなくて、薄型と言ってもずいぶん奥があったが、それでも大画面、と言ってもこれも34-32インチのテレビを前にして、レザーディスクを使って、再生する。ソファーに座ってゆったりとお酒でも飲みながら見るというのがコンセプトだった。今で言う環境ビデオというのだろうか。その水中を、知床、摩周湖からの地下水が噴出する原生林のなかの神の子池で撮影しようということになった。この神の子池についたは、月刊ダイバーの12月号にちょっと書いた。とにかく、この世のものとも思われない、原生林の中にぽっかりと開いたどこまでも澄んでいるように見える青い眼のような泉だ。僕は、この泉にこの撮影のために、一年間、毎月通うことになった。助手、ジムニー、ビデオエンジニア、ディレクター、そしてカメラの僕、4人編成で斜里に、毎月、少なくとも3日は泊まる。往復を入れて、毎月、1週間はそのロケをした。今振り返ると想像もできないような時代だった。なんであんなにお金が使えたのだろう。
僕はこの泉の中に三脚を立て、当時の最高級のビデオカメラ、池上の79Eというカメラを載せる。ハウジングも入れると陸上での重量は50キロ、水中では1キロ以下だが、質量は50キロある。三脚を立て、ファインダーを覗いて、1時間の継続撮影が出来るように画面を作る。自然の情景を切り取る。1時間のうちには、太陽が廻る。光が原生林を通して差し込むから光と影が廻って行く。風が吹けば水面にさざ波が出来て、底の白い砂に光の波紋を投げかける。たくさん泳いでいるオショロコマ(カラフトイワナ)が、なぜわかるのだろう。水底に居ながら、水面の上を飛ぶ虫を見つけるのだ。するするっと泳ぎ上って、水面の上に跳ね上がって虫をとる。信じられないような光景だ。魚を釣るのにフライを水面に落としたりあげたりして魚を誘うのは、これだな、と思った。とにかく莫大な量のテープを回した。そのころのビデオレコーダーは、テープレコーダーのような1インチ幅のテープでレコーダーとカメラは有線でつながっていて、上でモニターを見ながら回す。値段も安くないから、どこに三脚を立てて、どんな画面を切り取るかがカメラマンの命だ。僕はダイバーだから、それほど上手なカメラマンだとは思っていなかった。しかし、カメラマンならば死んでしまうような撮影でもできるのが売りだった。しかし、このエクスピアリアンスで、僕のカメラマンとしての修業が出来た。僕は決して下手ではないという電通での評価をもらった。アクションには自信があったから、これでなんでも来いという気持ちになった。この後が1986年からのニュース・ステーションの撮影になる。