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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0707 ダイビングの歴史 78

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ダイビングの歴史78 海の世界 1975年 5月

今日は、イルカのことを書こう。
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僕と1975年の海洋博を結ぶ絆の一つは、記念スポーツダイビングフェスティバル、もう一つがイルカだった。 トップのイルカの絵だが、海の世界では毎号海の生き物の特集を、ページの色を変えて、組んでいてこれが中々良かった。連載をまとめて別の本にしても良いと思ったものだったが、本にはならなかった。生き物の解説は歴史とはあまり関わらないので、ここには収録しなかったが今回はイルカのことを書きたいので、載せることにした。
 書いているのは鳥羽山照夫先輩、東京水産大学で僕の一年上の先輩だ。鳥羽山先輩は潜水を学生時代はやらなかったので潜水部ではなかったが、僕のことを引き立ててくれた。学生時代の縁がそのまま続いて海洋博でも、その後もお世話いただいた。残念なことに亡くなられてしまっている。
 鳥羽山先輩は日本におけるイルカ飼育の第一人者であり、ここに収録した解説も、簡潔でわかりやすい。ただ、1975年の時点では、まだ、野生のイルカとダイバーは、友達関係はなく、水族館を通しての付き合いだった。御蔵島での付き合いが始まるのは、ここから、20年後である。
 鳥羽山さんは当時鴨川シーワールドの館長であり、その実績で海洋博の売り物の一つである水族館の総合プロデューサーになっていた。
 その水族館の売り物の一つが、イルカがショウに参加する沖チャン劇場であり、僕は、沖チャン劇場仕事をさせてもらった。
 本当のことをいうと、イルカに芝居をさせるのは無理で、その演出には鳥羽山さんも僕も賛成では無かったが、とにかく仕事としては、沖縄に通うことができて満足だった。
 イルカ芝居と言っても、イルカの出きる芸当は決まっていて、その芸を人間、ショウマンの芝居と噛み合わせるのだが、現地募集したウチナンチューの女の子たちは、全く芝居ができない。芝居の演出家である監督はイルカにも彼女たちにも無理を強いているようで、「ちがう」と思うことがしばしばだった。僕は、これでも、高校時代は演劇部だった。役者としてはどうにもならないダイコンで、沖縄の女の子レベルだったが、演出家としては理屈をもっていた。無理なわざとらしい芝居は好きでない。まあそんなことはどうでも良いのだが、芝居は、イルカが海に落ちた人間を救助する話だった。


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写真は太地のイルカ漁。
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 よく、イルカや鯨を殺したり食べたりする事を伝統的な食文化だとか、漁法だとか言うが、現在の捕鯨は文化と言えるほど古くはない。太地のいるか漁のルーツは。伊豆で、1960年代に伊東に見学に来て習ったのが太地のイルカ漁の始まりだ。これも、水族館からの捕獲依頼え始まったものだという。水族館に必要な数だけキープして後ははなしてやったか、というとそうではなくて、食べちゃった。その後捕鯨がらみで反対運動がおこり、残りは解放したようなことも聞いているけれど確認していない。
 とにかく、イルカ漁については、伊東が本家なのだ。
 その本家は、ダイビングサービス業を漁協が行うようになってから中断していたものだが、それが、再開されるのだという。
 にわかには、信じられない思いがする。このことについて、長くなりそうなので稿を改めたい。


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 NHK 撮影班 当時は全員が日本潜水会だった。その中心であった河野、竹内、畑中、森江 さんは、親友といえる仲だった。

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 この頃、海底ハウスが注目の的だった。水深8mでの長時間滞在、長いハーフタイムのM値 がたまりまくるはず。そして、御殿場を越えて東京に帰ってくる。でも、それで減圧症になったという話を聞いていない。
 その代わりに?原始的な空気塞栓で、事故が起こり、閉鎖となった。でも、田中さんはあきらめていなかった。今、現在まで続いていたら、どうなっていただろう。

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