1967年に日本潜水会は、スピアフィッシングの禁止を決議して、魚突きのチャンピオンであった鶴耀一郎は、奄美大島に移住(お父さんの実家だという)プロの漁師、ウミンチューになって魚突きを続けた。しかし、機材販売の世界は、また別の世界。1968年も水中銃が主役。
しかし、年月が経ってみれば、今はスクーバで魚突きをするレジャーダイバーはいないだろう。ダイビングショップに水中銃は並ばない。ダイビング雑誌に水中銃の記事も、広告もない。
東亜潜水機で僕がつくって、ボイトの大沢商会が映画関係に販売した。
ライフジャケットとゴムボート
※写真を貼り付けて、PCで、見ると拡大して、字を読むことが出来る。スマホは少しつらいけど。
鮫狩り 田口哲
爆薬で、銛を打ち込む、ポップガンで鮫を撃つことを書いている。
サメは魚の仲間に入っていない時代
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海上自衛隊横須賀地区病院 院長 松田源彦
松田先生は、その後、海洋科学技術センターに移られ、シートピアの指揮を執られる。
マレス 運道具用品問屋の東京トップ
BZM サロンの投稿を見ると、統一とか、きちんとしようという発言がみられる。
野尻君は 孤軍奮闘してこの雑誌を作り上げた。
彼は、ダイビングという閉鎖社会で、ダイバーとしての知り合いではなかった。どこからきたのだろう。なにをダイビング界でやろうとしていたのだろう。よくわからなかった。ダイビングは出来たが、素人だった。なにか、スーパーな能力を持っているように思えた。