事故例1
事故例2
これら事故例の説明では中野さんの説明は、これまでの保安官の説明のなかでも出色のものだったと思う。
海保の係り官の説明には、毎度感心はしている。それぞれが視点を変えて話を組み立てているように思える。 事故に遭わないためには?
というより、自己過失が多いのだから、事故を起こさないためには?だと思うけれど、
僕は考えがあるから、発言したかったのだが、その発言に関しての講師の話が、悲しいことに聞き取れないかもしれない。議論にならないのだ。ずいぶん迷ったのだが、発言しなかった。 事故例1も2も議論になる例を選ばれている。
事故事例1
この事故事例の起こった場所が問題であるから、僕が立ったとすればそれをまず聞いただろう、そして、ドライスーツ着用というのだから、その時の水温も問題になる。
それらの条件をふまえたうえで、ダイビング歴が事故時に7本目で、ドライスーツで水深28mに潜るというのは無謀、現今の指導団体には、Cカード取得から30本目あたりまでのプログラムというか、禁止事項はないのだろうか。
今、プロのダイバーでも空気で潜れる限度は40m、ぼくらでも、水深30mは、深い潜水だと身構える。それを28mというのだ。 事故事例2
ボートエントリーだ。常識的に考えて、潜降索は、ボートからおろすだろう。
パニックになって浮上する。浮上した上にボートがありボートにあげれば何の問題もないのにそうしていない。別の浮標を浮かべてボートは何をしていたのだろう。 そのシステムも納得いかないのに、さらに、インストラクターが決してやってはいけないこと、これは、古典的な事故である。古典的とは、事故例に学ばずに何度でも事故を起こし、人を殺し続ける事故という意味だ・
不調なダイバーを一人にする。ほかのお客にダイビング中止を伝える為に一人残して潜っていった。そんなことにならないように、打ち合わせておけばすむことだ。インストラクターがだれかの不調について浮上する。その時点ですでに事故なのだから、全員事故として浮上する。商売上の視点からそのようなことができないとすれば、この人はコマーシャリズムの犠牲になって死んだということだ。
たぶん、このような議論になるように、講師の中野さんはこの事例をえらんでいるのだろう。こんなこと、僕が発言しなくても、指導資格の更新なのだから、誰か発言する人が居てしかるべきだった。もしくは、発言者を仕込んでおく。
そういう準備の周到さがないことが、ダイビング事故を生んでいるのだろう。 僕の言葉として河合先生がとりあげてくれたのだが、ダイバーは危険の克服を好む。言葉を換えれば、すべてが危険だと想定して、克服する手段を用意しておく。ダイビングの指導員はそのくらいの頭の回転がもとめられる。