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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0316ダイビングの歴史54ブルーゾーンロレックス杯水中スポーツ選手権大会

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ブルーゾーン 1969
 ロレックス杯水中スポーツ選手権大会 「三号雑誌」という言葉がある。三号でつぶれる、三号までしか出せない雑誌のことをいう。カストリ雑誌と言う言葉もある。戦後、ものの無い時代にカストリ焼酎という粗悪な酒があって、三合飲むとつぶれる。具合が悪くなるので、カストリ雑誌と言う言葉もあった。カストリのホウハ、エログロで、内容の方もカストリなのだが。
 ブルーゾーンも3号でつぶれた。
 その2号、探したが無いのだ。しまっておいた記憶があるのだが、探してもない。
 だから、3号。
 この3号、日本の水中スポーツ界にとって大きな意味がある。
 
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 ブルーゾーンがの野尻が営業しててロレックスがスポンサーの水中競技会ができた。これが、今もなお毎年続いている。全日本室内水中スポーツ選手権大会のはじまりなのだ。そして、そのご1975年の沖縄大会。そして、海洋公園での海洋フリッパーレースと続くロレックス時計の後援の始まりだった。ロレックスの援助がなければ、日本に水中スポーツというジャンルのダイビングは存在しなかった。
 そして、世界でも、日本の水中スポーツのようなダイビングはない。
 僕の死後どこまで続くかわからないが、とにかくその始まりが、このブルーゾーン第三号で紹介する「全日本ロレックス杯水中スポーツ選手権大会」なのだ。 そのころ、今でもその名残はあるが、競技水泳関係者には、フィンに対する忌避感がある。わからないでもない。人工の鰭を着けて、自分たちよりも速く泳いでしまうのだ。
 それまで、僕たちは、フィンは速く泳ぐためのものではない。フィンを使うことによって、手を、推進力に使わなくても良い。カメラを持ったりして、手を人間本来に使い方が出来るようにする。知っての通り、人間は二足歩行が常になったことで、人間となった。水中撮影は、人間の水中活動は、フィンがあってこそ誰でもできるようになったのだ。
 古式泳法とか、シンクロなど足だけで勝負する泳ぎもあるが、長いつらいトレーニングが必要であって誰でも出来ることではない。一方で、フィンは、誰でも、使ったその日から、魚のように泳ぐことができる。もちろん上手下手もあり、議論は無数にあるが、それは別の機会に譲って、とにかく、水泳関係者から、フィンは邪道だと憎まれていた。
 今でも、今後も 200年?は、フィンスイミングがオリンピック種目になることはないだろう。
 だから、プールという競泳プールから、フィンは閉め出されていた。ただ一つ、伊豆海洋公園に、海水ではあったが、50mの公式競泳プールがあり、このプールがあったことで、日本潜水会の泳ぐ力至上主義が生まれ、競技会が生まれた。海洋公園の基本コンセプトを考えた益田一の慧眼のおかげだ。
 その水泳界の継子であるフィンで泳ぐ競技会の全面的なスポンサーにロレックスがなってくれたのだ。
 そのロレックスと僕たちを繋いだのがブルーゾーンの野尻純康だった。
 ロレックスについて、説明することはなにもないだろう。超有名、高価ステイタス 水中時計の元祖で、昔も今も雲の上の時計である。もはや時計ではなく宝石の類である。
 ブルーゾーンの野尻が連れてきた。どういう関わりがあったのか?
 特別の縁故関係があったわけではない。タイミングだろうと推察する。雑誌の広告を取る営業に行って1968年に無理矢理にはじめてスタックしていた僕たちの水中スポーツのことを話したら、直ちに乗ってきた。ロレックスはスポーツを応援する。水中、水密が売り物だから、水中競技が良い。オリンピックの競技などは、莫大なお金をかけなければ、スポンサーになれない。それに比べれば、安いものだ。
 それからの、僕たちとロレックスの関わりは、一つの歴史ストーリーになる。そのこと、1章をさいてダイビングの歴史に書いておかなくてはいけない、と今改めて思うのだが、その第一歩、第1頁がブルーゾーンだ。
 ここから先は、ブルーゾーンの3号を見ながら話していこう。
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 それにしても、第一頁に野尻の顔がでてくる。野尻君、今どうしているだろうか。生きているだろうか。
 ブルーゾーンが3号で潰れるとき、飲み明かした。僕も後藤道夫もなにをしてやることも出来ない。僕が東亜潜水機を退社してスガ・マリン・メカニックを作るのが1969年、長どこの年なのだ。自分が食べて行かれるかどうかわからない。何とも出来なかった。
 このブログをどこかで見て連絡してくるかもしれない。ブログ、意外な効果があるのだ。
 
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 頁の順を変えています。
 大会のおいたち
 今回の全国大会開催に当たっては、水中ハンティングをいっさいやめて、ダイビングのスポーツ性を重視した企画からスタートが切られた。昨年夏、日本潜水会の後藤、須賀、浅見氏を中心に準備委員会が設けられ、この大会の企画について、検討がなされた。もっとも肝心なことは、開催に要する費用の捻出であった。
 幸いなことに弊誌ブルーゾーンが窓口となって、ロレックス時計日本本社にこの趣旨を話した所、大いに賛同をうることができこの大会に必要ないっさいの費用と賞品とがロレックス時計によってまかなわれる事が確定した。
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 写真は当時の伊豆海洋公園である
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 頁の順序を変えて並べるが 全国で地域別に10チーム、そのうちで関東はA、B,C 3チーム優勝が関東Bチーム監督が益田一、2位が関東C,監督が鈴木勇 3位が関東A 監督が大崎映晋だ。
 ここから先、写真、名前が出てくる一人一人について、僕には想いがある。本当はその全部を書きたい。ニッポンダイバー列伝が書けるとすれば、これは、写真入りの名鑑になる。が、今ここで書くことが出来ない。 出来るだけ、最小限やってみよう。例によって脱線気味になるが。
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            左端が鈴木勇 益田一 大崎映晋
 益田さん、大崎さんは置いておき,関東Cの鈴木勇について、勇は、中央区大手町鎌倉橋で勇寿司という寿司やをやっていて、突いた魚を握っていた。もちろん、それだけではないが。広義の密漁寿司だが、大のお得意が近くにある全漁連だったのがおもしろい。魚突き命がスポーツ大会の監督、というところが、当時を象徴している。しかし、快男児、気持ちの良い優しい男だった。最後は、これもスピアフィッシングハンターの医師、後藤輿四之先生と一緒に潜っていて(たぶんスピアフィッシング)亡くなった。関東C には、中村宏治(カメラマンで知らない人はいないだろう。)新沼義孝(TAC で指導していた。さっき彼が亡くなっていた話をしたばかり、仲良しだった)藤岡徹 片平恵美子さん 大崎映晋さんが監督の関東Aには、オリンピックチャンピオンの山中毅がいる。そして鶴耀一郎は、重量挙げにでた。ハウジングメーカーになった恒木毅 鬼怒川マスクに行った青木尚之、優勝した益田さんの関東Aは、益田安規 畑成盟は中村宏治の好敵手だった。谷内秀明は、法政アクアの創始者の一人だ。そして、ヨットのカメラマンとしてアメリカズカップを撮り、慶良間のサバニレースをやる添畑薫 
 そして、中部Bチーム 望月昇監督で彦坂隆雄さんがいる。
 知った名前を挙げたら際限がない。
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 大会役員だが、これも当時のオールスターキャストだ。
 舘石昭が関東の代表委員だ。玉置敏雄が関西 後に潜水病で車いすにのる川俣実隆が九州、僕、須賀は、大会実行委員長、以来、今日の室内選手権まで、50年実行委員長をやっている。田口哲も高橋実も、田中龍彦、ダイブウエイズの武田寿吉 
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 大会は5月9日集合で、10日の土曜日、11日日曜日 二日にわたって行われた。
 競技種目だが フリッパー競泳は 男子800m、女子300m
 スクーバを付けた潜水競泳は1000m
 そして水中射撃は、35m水平潜水していって、定められたラインの内側から、3m先の標的を打ち3回トライの合計得点を争う。
 水中重量挙げは海、海洋で行われて、水深8mの海底にウエイトベルトを置き、潜って引き上げて水面のボートに上げる。 今の、室内選手権は、6歳から80歳まで、生涯スポーツだが、これは、全国各地で予選をやり上位入賞者を代表選手として、賞品にロレックス時計がもらえる。ハードな競技大会だった。
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     商品のロレックス時計   
 続く 
 

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