「海の世界」は、ダイビング専門誌ではないが1963年には、舘石、須賀の90m大深度実験を掲載してくれた。そして、次第にダイビングの記事も出始めたが、ダイビング専門誌ではない。ダイビング専門誌は、1968年 7月の「ブルーゾーン」が、書店に並ぶ雑誌として本邦初である。なお、「どるふぃん」は会報であり、一般に販売される雑誌ではなかった。
ブルーゾーンは野尻純康が編集発行人である。
1968年の、自分は、28歳 後藤道夫、浅見国治と日本潜水会をつくったが、まだ東亜潜水機にいる。 東亜潜水機を退社するのは、翌1969年、僕はいろいろな意味で、独立、自立する境目にあった。あとから振り返れば、最悪ではないものの、最善の路ではなく、後から後悔することばかりだったが、成り行きである。
自分の目標とする基本コンセプトは、日本のダイビングスポーツ界を統一して、スクーバダイビングをスポーツとして、公に認めさせること、だった。それが、まちがいだったのだが、やってみなければわからない。その頃の、スポーツダイバー(商売人では無いという意味)口を開けば、統一とか協力を唱えていた。
スピアフィッシングをやめたら、ダイビングに残るものは、水中撮影だが、水中銃は誰でも、ほとんど全ダイバーが持っていたが、カメラは全員が持っているわけではない。なにも持たなくてもダイビングは楽しいが、それまで銃を持っていた手はやり場がない。それを少なくとも、日本潜水会直下の指導員には、無理矢理に徹底ようとしたが、水中銃の販売はやめるわけにはいかない。一番売れる商品なのだ。だから、無理なのだ。
なお、今のダイバーには想像を絶することだろうから、説明しておくが、僕らがやっていたスピアフィッシングは、スクーバを使ってやっていたものなのだ。
スピアフィッシングでのバディシステムとは、エントリーは一緒、エキジットは、出来れば一緒、に上がりたいとは思っているが、水中では、出来るだけバディの気配、位置はつかんでいようと努力はしているが、獲物をねらうのは個々別々だ。場所にもよるが、浅い水深を移動しながら、魚を探し、大物がいたら急降下して狙う。大物であれば当然、上へも下へも暴れまわるから、ダイバーも上下、つまり、潜降浮上を繰り返す。そして大物であれば、そのまま浮上して、船にあげるか、水面の浮きにぶら下げて次の獲物をねらう。安全停止という発想もなければ言葉もない。もちろんダイブコンピューターなどもない。鋸の歯のような潜降浮上の繰り返しは日常だ。
それで、なぜ減圧症にならなかったのか?神津島で大物狙いの大会をやった。八丈島でもやった。でも誰も減圧症にはならなかった。考えられる理由は、だいたいにおいて、タンクは一日に1本だった。多くても1日に2本、充填圧は150キロだった。使うタンクは充填したものを車に積んでいき、おわれば、持ち帰って充填してくれる所に持ち込む。スピアフィッシング大会では減圧症はでなかったが、クラブでは、一人二人減圧症体験者は居た。
スピアフィッシングを無理矢理禁止した日本潜水会の英断は、安全のためにもかなったものだった。
そんなスピアフィッシングに代わる活動として、水中スポーツ大会を開催した。もちろん、水中撮影も強制的に奨励したが、カメラも買えない。フイルム代ももったいないという若いダイバーが熱中できる目標として、速く泳ぐこと、重いものを持ち上げること、レスキューの練習を競技にすること、などを競う大会を、スピアフィッシング大会に代わるものとして、企画した。1968年は、その第一回を目黒の日大、プールで開催した。東亜潜水機の業務の傍らだから、その準備が難儀だった。
そんな難儀の最中、僕と後藤道夫は、野尻君に呼び出されて、会った。
場所は、青山のどこかの喫茶店で、そのときの光景は今も思い出すことができる。日本潜水会は、原稿料なしで全面的に協力することになった。
大沢商会のアクア スポーツ課、そしてボイトは、前年 日本潜水会を一緒につくった白井常雄が仕切っている。葉山マリーナにボイトダイビングセンターもやっている。
そのころは、飛び込みのダイビングと区別するために、アクアダイビングという言う呼び名を提唱した。良い言葉だと思うがだれも使わなかった。
僕は、1966年に日本で初めてのダイビング指導書「アクアラング潜水」を浅見国治と共著で書いている。そして67年に日本潜水会を後藤道夫、浅見国治とはじめた。
一応、当時のスポーツダイビング指導のトップを走っていた。日本潜水会では、まだインストラクターと言う名称は使わない。指導員だ。
そのころのダイビング指導はどんなことを考えてやっていたか、今振り返ると興味深い。
健康
自分はまだ若く、健康である。病気の人とか高齢者の気持ちはわからない。だから、健康で無ければダイビングをやってはいけないと思っている。
仲間をつくろう
アクアダイビングの鉄則はバディシステムである。では、どのようにしてバディシステムを実行できるか。良いクラブをつくること。クラブが安全の鍵なのだ。この考え方は昔も今も変わっていない。
※実際のダイビング仕事、自分の会社では、経費的な問題もあって、これを貫けなかった。そのことが、後に大きな悲劇を生むことになるのだが。
遊泳能力
そして、泳ぎ方はクロールのような上下動のキック。今、主流のフロッグキックは禁止した。
スキンダイビング
アクアダイビングの第一歩はスキンダイビングである。スクーバを着けるためには、まずスキンダイビングから入らなければならない。
フロート
救命胴衣かフロート、どちらかを持つことが必須である。スキンダイビングは身体にごちゃごちゃしたものは着けたくないからフロートである。岩ノ下に潜り込んで、でられないで死ぬ思いをした経験がある。スクーバの方は、ごちゃごちゃしたタンクを着けているのであるから、ついでに救命胴衣を着けても良い。
懐かしい顔が並ぶ。ミナミスポーツの長谷川、USJの田中龍彦
若い女の子は小沢さん、山口さん
小沢さんは日本スキューバの会員だった。
この雑誌、ダイビングの指導については田口哲(日本のNAUI創始者)と僕で書いた。
ロスアンゼルス・カウンティ(ちじめてロスカン)公認インストラクター
田口君は、アメリカに7ヶ月留学して、ロスカンのインストラクターになった。アメリカではインストラクターと呼ぶ。
ロスカンはNAUIの前身とも言われる。、ロスカンがそのままNAUIになったものなのかどうか、役員構成などはしらないが、ロスカンのインストラクターは、みんなNAUIに移行した。
アメリカでは、まだスクーバダイビングはスキンダイビングに含まれていた。スキンダイビングというタイトルで、スクーバダイビングのことを書いている。 ページの順序を変えて、講習関係をここに持ってくる。
日本クレッシーサブ潜水講習コース
ロスカンの講習会が現地と同じ方式で開催される。
講義9時間、プール9時間、海での訓練3時間 合計21時間
アメリカのロスカンから2名が喚ばれており、日本からは、田口哲、大島洋が実施指導に当たる。大島さんは、後に日本海洋産業(潜水艇ハクヨウを持っていて、石油掘削の潜水業務を行う会社)に移られ、親しくなった。 この講習会の主催は大手のスポーツ用具問屋ホープが行った。
4月20ー22日 海洋公園で第一回一級検定が行われ41名が参加し、25名が合格した。
技能認定種目は
①10mの水底に8キロのウエイトをおいて、素潜りで引き上げてくる。
②水深5m以内で水平方向40mのす潜り
③水深15mからマウスピースをはずしてフリーアセント
④水深15mからバディブリージング浮上
⑤全装備を着けて100m沖まで、水面を行き、潜水してコンパスをたよりに出発地点に戻る
⑥全装備を着け、スノーケルなしで、水面を500m泳ぐ
⑦1組5人でグループ潜水シユミレーション
※振り返れば危ないことをやっていた。日本潜水会の一級は、死ぬことは許されない。とされていた。が、後に、素潜りで岩に拘束されて一人死亡。
葉山マリーナにあり、スクーバ20セット、クルーザーボイトI世号をもちダイビングができる。個人講習もできる。
葉山マリーナーにくるような、セレブ対象のダイビング これも、白井常雄がやっていた。
続く