「ちびっ子ダイバー」武田康弘さんという方がやっている屋外教育である。武田さんに僕はお目にかかった記憶が無いのだけれど。
我孫子児童教室で、夏季キャンプ、77年は城ヶ崎、78年神津島 79年房総の根本(白浜)でキャンプと海辺での潜水遊びをやった。
子供でも、今の浮力体を着けたスノーケリングとは全く違う。ヘッドファーストで潜って水深5mの石をひろわせる。おもしろいのは、最初の段階では危険なのでフィンを履かせないことだ。磯で転んで怪我をしやすいからだという。もちろんライフベストは着けていない。運動靴を履いてツービートで泳ぐ。スノーケルは、鬼怒川のサミーをつかう。これで、毎日お風呂でスノーケルクリアーの練習をする。
最終的にはフィンを着けるのだが、そのころには、たぶん、いっぱしのスキンダイバーになっているのだろう。
今2018年、そのころの子供は50歳になっているはずだ。どこかにおいでになるだろうか。
現在まで、続いていたとすれば、すごいことになっていたのに、
しかし、ジャケットを着けるルールが一般になっている今は、こんなことはできない。もしもの時に訴えられたら大変なことになる。
結局、広告、については、別に見ることにした。
NAUIのダイビングスクールブルーラグーン
講習料は40000円。1980年だったら、ずいぶんと高く感じたろう。
タートルは、マスクレンズの度入れから始まった。後に銀座で撮影用品のショップ。オーナーの荒川さんには、仲よくしていただいた。ちょっとしたアクセサリーをつくるのも上手だった。
NAUIのダイビングスクールMAUI
コースの値段を見ると、
sea & seaが、ハウジングではなくて、作ってしまったカメラ 小さいストロボも用意されている。どんなカメラだったのか、ほとんど記憶にない。35mmフィルムのカメラだったのだろうが。
新宿の海 DO スポーツのショップ。
おそらくは、都内で一番売れたダイビングショップのはずだけど、
けっきょく、水深の深いダイビング専用のプールというのは、水泳よりも率がわるい。たとえ機材販売を同時にしたとしても、割に合わなかった。
商売として、ダイビングはスイミングよりも難しい?のだ。
まだ、1980年には、DOスポーツは、ダイビングショップ部門も勢いがあった。
テンノット
これも、DOスポーツがやっているツアー会社で、フィリッピンのエルニドがベース、僕はエルニドに一度も行っていないが、語ることが山ほどある。
アクアク 決算大バーゲン 2ページ大の広告を出すところは、成功しているショップだ。
アルミシリンダー 46000円だ。
計器類のショーケースの真ん中に先日のシンポジウムでも紹介した。Sプロの画期的商品である減圧計が置かれている。ほかのダイブコンピューターは、まだ姿を表していない。
海賊の館 この人誰だったか思い出せなくて。そして、おお!三宅島海洋開発 定宿は、豪華プール付き、(三宅島でプールがあるのだ)DOスポーツ関連のアイランド
僕の三宅島ベース 今年2019年、こそは三宅島に行かなくては、三宅島が遠い島になってしまう。
大江戸海士 NAUIとPADI両方のマークを並べている。1980年には、まだ、それは有りだったのだ。
全日本潜水サービス 笹部さんのお店で、世田谷区代沢。今、親しい斉藤真由美さんは、ここのお客さんだった。
ついでと言っては失礼なのだが、OKアクアラングサービス・たぶんこの後の2000年の月刊ダイバーにも出てくるので、その比較。オーナーの土山さんと、小さかった娘さんの写真が、ここにも、他にも方々に出て、有名になった。
NAUIそのものの広告 四谷の三栄町にあった。田口君がいた。社長は田中さんの時代。
ブルーサブが2p見開き、カラー広告と、ずいぶん広告を出している。
並んでいるBC.、胸掛け式が主流、ジャケットが出始めということがよくわかる。レギュレーターは、すべてシングルホースだ。
ニコノスの15mm超ワイドが140000円、専用ファインダーが35000円、足せば175000円だ。sea & seaの、それに見合う超ワイド20mmが50000円だった。そうだったのだ。
ここでは、ニコノスⅢ型もⅣ型に並べて、売っている。65000円 Ⅳが75000円だ。Ⅲの方が好評だったのだ。
PADIの広告、このときはまだ、PADI潜水指導協会で市ヶ谷の春日マンションにあった。現在のPADIは、1982年からだ。
これも大きなお店(広告) シーラブ NAUIの講習だ。
ダコールのレギュレーターを正面に打ち出している。
今、ググってみたら、同じマークでは2016年までのスケジュールしか出てこない。
トウキョウアクアラングサービス
全日本潜水連盟の講習をやっていた。内藤さんの時代だったと思う。僕との関わりは、有為変転、これだけで一つの歴史だ。いずれまた。
NDSのレギュレーターも今は歴史だ。
そして サザナミ 全日本潜水連盟の関東支部長をお願いしていた。セブ島にベースを持っていた。
そして、この翌年1981年、雲見でタンクの爆発事故を起こす。サイパンにまで、ベースをつくっていたのに、本当に悲劇だった。この事故についても、また別に詳しく書くけど、オーナーの喜多さんは、全日本潜水連盟の関東支部長だった。
、
シーライフ シーラブとよく混同していた。どっちもつきあいが無かったので。
Buddy 菅俣さんのお店。 東亜潜水も昔も今も変わらず、お付き合いの広告を出してくれる。
東京ダイビングスポーツ、日本潜水会が、全日本潜水連盟の支部になっても、最後まで日本潜水会の看板をあげてくれていた。大沼さんのやっていたお店。繁盛していて、カード発行数も多かった。
最後の裏表紙の裏 ハリサン 今は廃業されてしまったが、僕には、想いがたくさん残っている。他のメーカーよりも安い価格で、ほぼ同等のものを作って売っていた。安売りはハリサンから始まった。
さて、こんな風に広告を並べてなんになる。何にもならない。単なるノスタルジーだろう。
そのとおりだけど、それが時代背景なのだ。一番最初に書いたけど、1980年はターニングポイントだった。その時の時代背景、ああ、あんなお店があって、あんな値段で、あんなものを売っていた。とともに、機材販売から、次第に講習とか、ツアーに商売の、広告の軸が移りつつある。
この広告の時代背景のうちで、真鶴潜水禁止問題があり、解決の方向に向かい、レジャーダイビングと共同漁業権漁業の、折り合いが生まれてくる。そして、一方では、ナヒモフの金塊のサルベージ
減圧症についてみると、ふかしが是か非か、そしてダイブコンピューターはまだ普及(ショップで売られて)いない。
ダイビングの指導では、パディ、ナウイ、特にPSDIのC カードに時代が移りつつある。
ダイビングのスタイルも、救命具そのままの胸かけ式のBC.からスタビジャケットに移る。これは大変革なのだ。そのことについては、また別に書きたい。長くなりすぎるから。
そんなことで、進行させようとしている「ダイビングの歴史」というジクソーパズルのピースを作ろうとしているのだが、
あんまりうまく入っていないけれど、自分として、面白いので、もう少しこの方向を追う。
次回は2000年、1980年から20年後の月刊ダイバーをみる予定。