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Channel: スガジロウのダイビング 「どこまでも潜る 」
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0202 神々の山稜

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生まれてこの方、2011年まで、誕生日のお祝いをしたことはありませんでした。なぜ歳を取るのが目出度いのか、まだわかっていませんが、友人たちがお祝いしてくれるのですから、素直にありがとうございますということがとても大事だろうとおもうのです。
 ということで、今年は1月25日、本当の戸籍上の誕生日をお台場でお祝いしてもらい。今日、2月1日に、石川宅の新年会の都合で2回めの誕生祝いをしてもらいました。一気に二つ歳をとったかもしれません。
 新年会をやった石川さんは、自分が何かをすることで、人が喜ぶことが生きがいであり、一番大事なことだとしている人なので、僕も喜ばなくてはいけない。素直に喜ぶという表現、表情ができないので、こういう時に困るのです。
それと、石川さんは人に挨拶の演説をさせるのが趣味だ。僕は、講演することはできるけれど、挨拶が苦手です。長くしゃべりすぎて、聞いている人が白けるので、いやなのです。今日は、ドサクサに紛れて、挨拶をしないですんだので、ここで、お礼を言い、ご挨拶をします。

1月25日の誕生日の日に生死事大(しょうじじだい)という禅語についてちょっと書いたのですが、

生死事大 光陰可惜 無常迅速 時人不待
さらにネットで調べてみました。http://www.jyofukuji.com/10zengo/2002/03.htm

生まれて死ぬ一度の人生をどう生きるか それが仏法の根本問題です 長生きすることが幸せでしょうか そうでもありません 短命で死ぬのが不幸でしょうか そうでもありません 問題はどう生きるかなのです。
 この世において 生まれたものは死に会ったものは別れ 持ったものは失い作ったものはこわれます。時は矢のように去っていきます
すべてが「無常」です。

 仏教は嫌いではないのですが、帰依することもない。得意ではないので、「一度の人生をどんなふうに生き、どんなふうに死んでゆくかが、人生です。光陰矢のごとしといいます。時は人を待ってくれません。」当たり前のことを言う、カッコのいい言葉だなと思うのです。
 80歳、ぼくはもう、生きることは大部分生きてしまった。今さら、どう生きるか悩んだところで、どうにもなりません。あとは、このままの姿勢を崩さずに、残りの時間を生きて、どう死ぬかです。できれば、死ぬ前になにか残ることをしたい。75歳で水中科学協会、JAUSを作りました。遅すぎる発足でした。紆余曲折があって、辞めたいと思ったこともあるのですが、辞めたら消滅してしまう。ようやく、協力してこの団体をやっていってくれる人たちが固まりつつあります。
 まだまだ、それで何をするかは、固まっていません。なるべく柔軟な姿勢で、柔軟に対処してゆこうと思っています。
 それでも、振り返ってみると、「ニッポン潜水グラフィテイ」にも述べましたが、ダイビングで何ができるか、何をするべきか、を、ダイビングを始めた1950年代から追い続けています。最後まで、ダイビングで何ができるのかを追ってゆこうと思います。同時に何をしているかの自覚も必要だと思っています。ただ、潜っているだけで楽しい、もぐることによってリフレッシュすることができる。これだけで良いのですが、それはその位置に前提として置いておき、その楽しいダイビングで、何ができるのか、つまり活動を追ってゆくことが、日本水中科学協会の進んでゆく方向です。方向はそれでよいとして。
 光陰可惜 無常迅速 時人不待、どこまで行けるのでしょうか。

 夢枕獏さんという小説家がいます。一緒にテレビの撮影で、快速ボートで吐噶喇列島周航の旅をしたことがあります。ただひたすら船に弱い人でした。暗示をかけようと、「船に酔わない方法をおしえましょうか?」というと、「いや、ここまで、船酔いの人生を送ってきたのだから、ここで酔わなくなってしまったら首尾が一貫しない。このまま酔い続けます。」とことわられました。
その夢枕獏の小説で、「神々の山稜」という山岳小説があります。エベレスト山頂を目指して行方不明になったジョージ・マロリーの遺品のカメラがあって、そのフィルムに山頂が写っていれば、彼が山頂に立ったかどうかがわかる。という筋立てです。その後、マロリーの遺体が発見されて、山頂には立っていないことがかなり確かになったのですが、この小説が書かれた時はまだ発見されていませんでした。

 エレベストの山頂を目指して登ってゆく、マロリーと同行したアーヴインの最後の姿を見送った登山家、N.E.オデルへのインタビューの引用で小説は終わっています。

「よく考えて見れば、あれは、私の姿なのです。そして、あなたのね。
 この世に生きる人は全て、あの二人の姿をしているのです。
 マロリーとアーヴィンは今も歩き続けているのです。
 頂に辿り着こうとして歩いている。
 歩き続けている。
 そして、いつも、死は、その途上でその人に訪れるのです。
 軽々しく、人の人生に価値など付けられるものではありませんが、その人が死んだ時、いったい何の途上であったのか、たぶんそのことこそが重要なのだと思います。
 私にとっても、あなたにとっても、
 何かの途上であること・・・・」
 N.E.オデルインタビュー 1987年、1月ロンドンにて
 N.E.オデルは、1987年2月、イギリスで死んだ。96歳であった。」


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