ほんとうは、違うテーマについて載せたかったのだが、このところ、ずっと考えてきたことだったので、
前回、中田さんが沢山の本を書き、その多くで、スポーツダイビングについて、ネガティブなことを書かれている。その原点ともいうべき彼の体験に付いて書いた。そのことについても、まだまだ意見があるが、それはもうよしとして、なぜ、その原点を書いたか、次の文が、僕の「ダイビングは冒険スポーツだ。」という主張に真っ向から反対のように見えるからだ。引用は 「商品スポーツ事故の法的責任と問題」2001 」より。
致死性スポーツにおける資格商法展開の問題
「スクーバダイビングは、かつては一部の人々の間で生命の喪失をも視野に入れたリスクの高い一種の冒険としての要素を強く持って行われていた。その当時は実行者における危険の引受はごく自然なことであり、そこに異論が入り込む余地はないであろう。またその当時は、例えば「泳げなくてもダイビングはできます」というような認識はなかったにちがいない。そういった先人たちの努力を経て、今やスクーバダイビングはレクリエーション商品となり、スクーバダイビング業界がサービス産業として確立するに至った。しかし、サービス産業の一般向け「商品」を販売する以上、そこに真の意味での「冒険」は存在し得ないのであり、またかつての「冒険」の時と同じような「危険の引受け」の論理を持込み、かつ存在せしめてはならないのである。これはすべてのサービス産業の中で一般向けに商品化されたアウトドア・レクリエーションスポーツに共通すべきことである。」
冒険など絶対に存在せしめてはいけないのである。
まず、言葉について考えてみよう。中田さんは致死性スポーツ、僕は冒険スポーツである。
広辞苑によれば、致死とは、「死に至らせること。死なせてしまうこと。「過失致死 「致死量 」などと使う。
冒険とは、「危険をおかすこと、成功のたしかでないことをあえてすること、「冒険するだけの価値がある」「その企画は冒険だ」「冒険小説」などと使う。
冒険も致死もそこに危険が存在することを意味しているが、致死は、「致死するだけの価値がある」「その企画は致死だ。」「致死小説」とは言わない。言葉の意味するところが全く違う。
どちらもやらないほうが安全だ。
だから、一時期、業界は「ダイビングは安全です」と唱えた。僕は最初に書いた本、アクアラング潜水 1966年では、「ルールを守れば安全です。」と書いた。しかし、ルールを守ることは、技術と知識が必要になる。そして、ルールを守らなければ危険なのだから、危険は存在している。この二つの条件を前提とすれば、ダイビングの安全についての記述としては間違っては居ない。そして、ダイビングに危険が存在していれば。「危険を冒すこと」になる。そして、「冒険するだけの価値がある」ので、冒険する。冒険とは、成功の確かでないことをあえてするのだから、その覚悟、準備が必須になる。
致死の方には「致死するだけの価値がある」「その企画は致死だ」とは、言わない。それは、やってはいけない行為になる。もしもダイビングが致死性スポーツならば、禁止されなくてはいけない。
一方冒険スポーツは?冒険は危険とは違うと言っても、危険を冒すことになる。人間は本能的に、危険に忌避感をもつから、冒険をしてはいけない。冒険的なスポーツはしてはいけないと連想する。同時に、冒険に魅了も感じる。僕の読む本の多くは冒険小説のカテゴリーに入る。気落ちした時、四面楚歌に感じた時、冒険小説を読んで、元気をとりもどす。
致死性スポーツと言う危険をあえてする冒険、としてしまえば、その距離は小さくなるが、「冒険など絶対に存在せしめてはいけないのである。」となると、妥協の術はなくなってしまう。
僕は、目の前に危険がある。それを避けて戻ってくるにはどうしたらいいのか、そしてその危険を想像して回避策を考えて、日々を送ってきた。今、月刊ダイバーに娘の潮美とした冒険の数々を書いているが、その日々は、身体を挺しても彼女を守るという意識を常に持っていた。彼女を守るといっても、僕は、命の危険があれば、動物的な本能で「てんでんこ」で、彼女を放り出して、にげてしまうだろうが、意識としては、彼女の命を優先していた。これは、親子でなくても誰でも同じで、バディになれば、最終的には逃げるけれど、まずは、バディを守ろうとする。それがレスキューであり、レスキューの心意気だと思う。最終的には「てんでんこ」で逃げるということを、ハードボイルドとも表現できる。
まず、中田さんは、消費者の立場からダイビングという商品を買うという立場でものを見ている。僕は、消費者として商品としてのダイビングを買ったことはない。ダイビングショップも小さいながらやってもいたが、商品としてダイビングを売っていたという意識はない。現在も、辰巳プールでスキンダイビングの練習会を、浦安運動公園でもスキンダイビングクラブのお世話をしているが、スキンダイビングという商品を売っているという考えは持っていない。ダイビング器材という商品を売ることはあっても、一緒に旅をしたり、楽しんだりするこは商品として考えにくい。長く、文科省の生涯スポーツの指導資格に携わっていて、労働の対価はもらったが、生涯スポーツの指導を商品として考えたこともない。
お金の授受があれば、すべての人間の行為は商品であると決めることもできるだろうが、商品として、人の心にも関わるスポーツという活動を、しかも、命に係るかも知れない活動を売り買いすることには疑問をもっている。ダイビングが冒険であるという前提に立てば、冒険という能動的な行為を商品として売り買いすることが、事故の遠因になるとも思っている。多分、中田さんは商品スポーツを否定するニュアンスで、致死性という言葉を使ったのだとはおもうが、冒険を否定してしまうと、残るものは、安全。「ダイビングは安全です。但し、自分の提供するシステムを使えば」ということになり、その行動の範囲は著しく狭くなり、講習終了後のダイビングのほとんどを否定することになってしまう。
ダイビングの本質が冒険であるとすると、それは商品ではない。冒険は売れない。冒険をするための機材、冒険を安全に行うための技術、知識を教え、その教授料金は、もらうことはできるが、冒険という行為を売り買いすることはできない。ダイビングが安全でないとすれば、安全を求める人に、安全ではないものを商品として売ることはできない。安全にはお金がかかる。安全の度合いは掛けるお金に比例する。だからこそ、安全には 定価をつけることができない。ダイビングが致死性スポーツであるとすれば、それは売ってはいけないのだ。
商品を買うという受動的なことではなく、自らの意志で冒険をするという能動でなければ、ダイビングはできない、という立場に僕は立つ。
もちろん、ダイビングという安全な商品を買おうとする立場も存在しうると思う。しかし、この二つの立場は、一緒に行動する事はできない。ダイビングを冒険だとするダイバーと安全を商品として買ったとかんがえる人とはバディは成立しない。
僕が中田さんに対して、忌避感をもち、もしかしたら、彼も僕の考え方に忌避感をもつとすれば、それは、この人とは一緒に潜水してはいけないという立場の差を感じているからだろうと思う。知り合った時だけしか、親しくお話していないが、決して嫌いではない。彼の考え方も嫌いではない。この人とは、水中での付き合いはできないということだ。
インストラクターもガイドダイバーも心のつながりがバディシステムを成立させることを知っているから、できるだけホスピタリティを大事にする。お金の授受があろうがなかろうが、誠実な心に対しては、誠実で答えてほしいというのが、一人前のインストラクター、ガイドダイバーの願いだろう。しかし、ダイビングのインストラクター、及びガイドダイバーにとって、ダイビングは致死性商品であり、絶対の安全を買おうとする消費者に出会い、一緒に潜水することは、危険であり、避けたい。しかし、ビジネスであり、商売であれば、避ける事はできない。何とかして、自分の守備範囲では事故が起こらないように最大の注意を払い、なるべく早く縁を切りたいと願う他ない。早く縁を切りたいと思うことも事故の遠因になる。
もちろん、とんでもないガイドダイバーもインストラクターもいるが、良いインストラクター、ガイドダイバーは本能的に消費者ダイバーを感知する。これができないと、ダイビングの世界では、生きて行けない。事故の危険を想像できない、完全な安全を求める消費者ダイバーと、とんでもないインストラクターの組み合わせで事故が発生する可能性が高い。中田さんの事故については、本当にとんでもないインストラクター、ガイドダイバーに出会った不運であり、同じことを避けられるようにしたいという動機はまっとうなものであると思う。
ダイビングは、人が元来生存できない水中へ、進んで行く。だから、ダイビングの事故というと、生命が失われることが少なくない。だから、中田さんは致死性スポーツと呼ぶのだろう。僕は、前にある障害を自分の全能力で避け、行動することを冒険と定義して、冒険的スポーツと呼ぶ。致死とは、人を死に至らせる、過失、傷害 死ぬ可能性のある疾病であり、薬物、危険な生物の毒などを言う。致死性スポーツとネットで検索すると、中田さんの本と、それを論じた僕のブログだけしか出てこない。僕が作った言葉ではないから、中田さんの著書だけに出てくる言葉のように思う。
ただし、冒険的ダイバーの事故率が低く、消費者意識の高いダイバーが危険だなどとはいえない。冒険者のダイバーは、どうしても難易度の高いダイビングにチャレンジするだろうし、消費者ダイバーは幸いな事に、1-2年の間に冒険者に変身するかやめて行く。
中田さんの著書、「商品スポーツ事故の法的責任」前掲の「ダイビング事故、法的責任と問題」は事故例がよく収集されていて、事故例について、僕にとって座右の書でもある。しかしながら、致死性スポーツという語は、ダイビング関係者にとって、どうしても受け入れ難い言葉であり、すべての提案がネガティブにとらえられてしまう。
前回、中田さんが沢山の本を書き、その多くで、スポーツダイビングについて、ネガティブなことを書かれている。その原点ともいうべき彼の体験に付いて書いた。そのことについても、まだまだ意見があるが、それはもうよしとして、なぜ、その原点を書いたか、次の文が、僕の「ダイビングは冒険スポーツだ。」という主張に真っ向から反対のように見えるからだ。引用は 「商品スポーツ事故の法的責任と問題」2001 」より。
致死性スポーツにおける資格商法展開の問題
「スクーバダイビングは、かつては一部の人々の間で生命の喪失をも視野に入れたリスクの高い一種の冒険としての要素を強く持って行われていた。その当時は実行者における危険の引受はごく自然なことであり、そこに異論が入り込む余地はないであろう。またその当時は、例えば「泳げなくてもダイビングはできます」というような認識はなかったにちがいない。そういった先人たちの努力を経て、今やスクーバダイビングはレクリエーション商品となり、スクーバダイビング業界がサービス産業として確立するに至った。しかし、サービス産業の一般向け「商品」を販売する以上、そこに真の意味での「冒険」は存在し得ないのであり、またかつての「冒険」の時と同じような「危険の引受け」の論理を持込み、かつ存在せしめてはならないのである。これはすべてのサービス産業の中で一般向けに商品化されたアウトドア・レクリエーションスポーツに共通すべきことである。」
冒険など絶対に存在せしめてはいけないのである。
まず、言葉について考えてみよう。中田さんは致死性スポーツ、僕は冒険スポーツである。
広辞苑によれば、致死とは、「死に至らせること。死なせてしまうこと。「過失致死 「致死量 」などと使う。
冒険とは、「危険をおかすこと、成功のたしかでないことをあえてすること、「冒険するだけの価値がある」「その企画は冒険だ」「冒険小説」などと使う。
冒険も致死もそこに危険が存在することを意味しているが、致死は、「致死するだけの価値がある」「その企画は致死だ。」「致死小説」とは言わない。言葉の意味するところが全く違う。
どちらもやらないほうが安全だ。
だから、一時期、業界は「ダイビングは安全です」と唱えた。僕は最初に書いた本、アクアラング潜水 1966年では、「ルールを守れば安全です。」と書いた。しかし、ルールを守ることは、技術と知識が必要になる。そして、ルールを守らなければ危険なのだから、危険は存在している。この二つの条件を前提とすれば、ダイビングの安全についての記述としては間違っては居ない。そして、ダイビングに危険が存在していれば。「危険を冒すこと」になる。そして、「冒険するだけの価値がある」ので、冒険する。冒険とは、成功の確かでないことをあえてするのだから、その覚悟、準備が必須になる。
致死の方には「致死するだけの価値がある」「その企画は致死だ」とは、言わない。それは、やってはいけない行為になる。もしもダイビングが致死性スポーツならば、禁止されなくてはいけない。
一方冒険スポーツは?冒険は危険とは違うと言っても、危険を冒すことになる。人間は本能的に、危険に忌避感をもつから、冒険をしてはいけない。冒険的なスポーツはしてはいけないと連想する。同時に、冒険に魅了も感じる。僕の読む本の多くは冒険小説のカテゴリーに入る。気落ちした時、四面楚歌に感じた時、冒険小説を読んで、元気をとりもどす。
致死性スポーツと言う危険をあえてする冒険、としてしまえば、その距離は小さくなるが、「冒険など絶対に存在せしめてはいけないのである。」となると、妥協の術はなくなってしまう。
僕は、目の前に危険がある。それを避けて戻ってくるにはどうしたらいいのか、そしてその危険を想像して回避策を考えて、日々を送ってきた。今、月刊ダイバーに娘の潮美とした冒険の数々を書いているが、その日々は、身体を挺しても彼女を守るという意識を常に持っていた。彼女を守るといっても、僕は、命の危険があれば、動物的な本能で「てんでんこ」で、彼女を放り出して、にげてしまうだろうが、意識としては、彼女の命を優先していた。これは、親子でなくても誰でも同じで、バディになれば、最終的には逃げるけれど、まずは、バディを守ろうとする。それがレスキューであり、レスキューの心意気だと思う。最終的には「てんでんこ」で逃げるということを、ハードボイルドとも表現できる。
まず、中田さんは、消費者の立場からダイビングという商品を買うという立場でものを見ている。僕は、消費者として商品としてのダイビングを買ったことはない。ダイビングショップも小さいながらやってもいたが、商品としてダイビングを売っていたという意識はない。現在も、辰巳プールでスキンダイビングの練習会を、浦安運動公園でもスキンダイビングクラブのお世話をしているが、スキンダイビングという商品を売っているという考えは持っていない。ダイビング器材という商品を売ることはあっても、一緒に旅をしたり、楽しんだりするこは商品として考えにくい。長く、文科省の生涯スポーツの指導資格に携わっていて、労働の対価はもらったが、生涯スポーツの指導を商品として考えたこともない。
お金の授受があれば、すべての人間の行為は商品であると決めることもできるだろうが、商品として、人の心にも関わるスポーツという活動を、しかも、命に係るかも知れない活動を売り買いすることには疑問をもっている。ダイビングが冒険であるという前提に立てば、冒険という能動的な行為を商品として売り買いすることが、事故の遠因になるとも思っている。多分、中田さんは商品スポーツを否定するニュアンスで、致死性という言葉を使ったのだとはおもうが、冒険を否定してしまうと、残るものは、安全。「ダイビングは安全です。但し、自分の提供するシステムを使えば」ということになり、その行動の範囲は著しく狭くなり、講習終了後のダイビングのほとんどを否定することになってしまう。
ダイビングの本質が冒険であるとすると、それは商品ではない。冒険は売れない。冒険をするための機材、冒険を安全に行うための技術、知識を教え、その教授料金は、もらうことはできるが、冒険という行為を売り買いすることはできない。ダイビングが安全でないとすれば、安全を求める人に、安全ではないものを商品として売ることはできない。安全にはお金がかかる。安全の度合いは掛けるお金に比例する。だからこそ、安全には 定価をつけることができない。ダイビングが致死性スポーツであるとすれば、それは売ってはいけないのだ。
商品を買うという受動的なことではなく、自らの意志で冒険をするという能動でなければ、ダイビングはできない、という立場に僕は立つ。
もちろん、ダイビングという安全な商品を買おうとする立場も存在しうると思う。しかし、この二つの立場は、一緒に行動する事はできない。ダイビングを冒険だとするダイバーと安全を商品として買ったとかんがえる人とはバディは成立しない。
僕が中田さんに対して、忌避感をもち、もしかしたら、彼も僕の考え方に忌避感をもつとすれば、それは、この人とは一緒に潜水してはいけないという立場の差を感じているからだろうと思う。知り合った時だけしか、親しくお話していないが、決して嫌いではない。彼の考え方も嫌いではない。この人とは、水中での付き合いはできないということだ。
インストラクターもガイドダイバーも心のつながりがバディシステムを成立させることを知っているから、できるだけホスピタリティを大事にする。お金の授受があろうがなかろうが、誠実な心に対しては、誠実で答えてほしいというのが、一人前のインストラクター、ガイドダイバーの願いだろう。しかし、ダイビングのインストラクター、及びガイドダイバーにとって、ダイビングは致死性商品であり、絶対の安全を買おうとする消費者に出会い、一緒に潜水することは、危険であり、避けたい。しかし、ビジネスであり、商売であれば、避ける事はできない。何とかして、自分の守備範囲では事故が起こらないように最大の注意を払い、なるべく早く縁を切りたいと願う他ない。早く縁を切りたいと思うことも事故の遠因になる。
もちろん、とんでもないガイドダイバーもインストラクターもいるが、良いインストラクター、ガイドダイバーは本能的に消費者ダイバーを感知する。これができないと、ダイビングの世界では、生きて行けない。事故の危険を想像できない、完全な安全を求める消費者ダイバーと、とんでもないインストラクターの組み合わせで事故が発生する可能性が高い。中田さんの事故については、本当にとんでもないインストラクター、ガイドダイバーに出会った不運であり、同じことを避けられるようにしたいという動機はまっとうなものであると思う。
ダイビングは、人が元来生存できない水中へ、進んで行く。だから、ダイビングの事故というと、生命が失われることが少なくない。だから、中田さんは致死性スポーツと呼ぶのだろう。僕は、前にある障害を自分の全能力で避け、行動することを冒険と定義して、冒険的スポーツと呼ぶ。致死とは、人を死に至らせる、過失、傷害 死ぬ可能性のある疾病であり、薬物、危険な生物の毒などを言う。致死性スポーツとネットで検索すると、中田さんの本と、それを論じた僕のブログだけしか出てこない。僕が作った言葉ではないから、中田さんの著書だけに出てくる言葉のように思う。
ただし、冒険的ダイバーの事故率が低く、消費者意識の高いダイバーが危険だなどとはいえない。冒険者のダイバーは、どうしても難易度の高いダイビングにチャレンジするだろうし、消費者ダイバーは幸いな事に、1-2年の間に冒険者に変身するかやめて行く。
中田さんの著書、「商品スポーツ事故の法的責任」前掲の「ダイビング事故、法的責任と問題」は事故例がよく収集されていて、事故例について、僕にとって座右の書でもある。しかしながら、致死性スポーツという語は、ダイビング関係者にとって、どうしても受け入れ難い言葉であり、すべての提案がネガティブにとらえられてしまう。