潜水士の資格制度、高気圧作業安全衛生規則は、減圧症、1961年当時は潜水病と呼ばれることが多かったが、その減圧症を防止することを主たる目的としてために作られたと書いた。減圧症は、潜水病と同時にやはり高圧環境で働く潜函工事で起こる減圧症である潜函病も同じように防止する。潜水も潜函も、同じような減圧を行うことからひっくるめて減圧症である。
1960年当時、減圧症はすでによく知られていたが、その治療は「ふかし」と呼ばれる方法で行っていた釜に入れて蒸す(ふかす)からふかしなのだろうとおもう。釜すなわち再圧タンクなのだろうともおもっていた。しかし、ならばその釜も普及していなければならないはずだ。それがちがう。となれば、蒸かす釜は、ヘルメットなのだろうか。実際にはヘルメットに入れて蒸していた。
房総半島でのヘルメット潜水による漁と言えば、アワビ漁である。ヘルメット式のアワビ漁の中心は外房大原沖にある器械根の漁である。ヘルメット式潜水機、すなわち器械でとるから器械根である。器械根の話に脱線すると大変なので、ここまでとするが、海女が潜れない深さであるからヘルメットを使う。明治11年(1878)頃にはじまった漁であり、ヘルメット式潜水の日本における嚆矢とも言える。この漁でどのような減圧表を使っていたのか、そしてふかしについては、「房総の潜水器漁業史」大場俊雄著・崙書房1993に詳しい。大場さんは東京水産大学で僕の5期先輩でとこれも脱線になってしまう。この本には「ふかし療法の開発」という章があり、房州勝浦の丹所春太郎が工夫し、この方法で多くの潜水漁師を救ったとして、勝浦市川津に銅像がある。川津にはアワビの調査で通ったことがあるのに、この銅像を見に行っていない。
房総のヘルメット式漁師は、「ふかし」で治療をしていた。減圧表についても、明治年代にすでに「三十尋より二十五尋までは三十分、二十五尋から二十尋までは一時間、二十尋から二十尋までは二時間」とか、時間表があった。この時間表に従って潜り、腕の痛みなどが出た場合にはふかしたものだった。それでも深刻な半身不随になる潜水病もあり、テレビのドキュメンタリーで、房州器械根での潜水病の悲劇を見た記憶がある。僕の家でテレビを買ったのは遅く、1964年だったから、それ以後のNHKの番組である。痛みに苦しみながらのふかしに強い印象を受けた。
それでは、再圧タンクは無かったのか?
千葉県の病院にあった。しかし、ヘルメット漁師たちは、あそこに行ったら終わりだと言って、よほど悪くなるまで行かなかった。悪くなってから行くから助からなかったという悪循環である。
たしか、1959年だったと思う。東亜で一人用の最厚タンク、ワンマンチャンバーを作ろうとした。作ろうとしたら特許に引っかかって作れない。クレームがついた。基本的な部分、タンクに圧力をかけて治療するという部分が特許になっているのだという。
特許は、公知公用になっていれば、通らない。異議申し立てができる。特許の申請の前に、申請者とは違う人が作って売り出していれば、通らない。社長がいろいろ調べたところ、昔に作った再圧タンクがスクラップになって横須賀にあるという。僕が調査を命じられ、横須賀までマツダのオート三輪に乗って調べに行った。もしもスクラップがあって買えるならば買ってくる。なんとかスクラップ屋さんまでたどり着いたが、残念、しばらく前に切断しバラバラにして捌いてしまったあとだった。
結局、この件は、梨本先生、旭潜研の佐藤さんらと語り合って、無効の申し立てをして、なんとなくうやむやにした。61年の高気圧作業安全衛生規則では、再圧タンクについて書いてあり、試験にもでるのだ。特許では労働省が困る。
100m潜水の船上 真ん中に再圧タンクが置いてある。
特許は何とかなったが、そんな具合だから東亜には作る技術がない。佐野専務が担当したが、コンプレッサーが専門であり、忙しいのではかどらない。僕はレギュレーターを設計して作り、苦労している最中だから、それに再圧タンクの設計など無理。それで、招聘したのが、帝国海軍で潜水の神様と言われ、伏龍特攻隊のための潜水機を作った清水登元海軍大尉だった。僕は100mの実験潜水を計画し、その総指揮を清水さんにお願いすることになるのだが、その東亜製再圧タンクができたのは、1963年8月、100m潜水に出発するその日、僕は徹夜でタンクに電話機を取付けて、そのままタンクの中で寝てしまって、その朝、館山は100m潜水のためにトラックにそのタンクを乗せて出発した。
再圧タンクの中の舘石さんと電話で話す僕
僕たちのために作ったようなもので、そのタンクに初めて入って圧力をかけられたのは、100mを一緒に潜った舘石さんだった。潜水を終了して、なんか具合が悪いというので、清水さんが、ちょうど良いとタンクに収容して圧力をかけた。元気になって出てきたから、きっと効果があったのだろう。
その再圧タンクは、どこかに売ってしまって、その後東亜で再圧タンクを作った記憶はない。現在、再圧タンク、大型減圧室の製作は、中村鉄工所、羽生田鉄工、現在はパロテックハニュウダ株式会社が分け合っていて、羽生田社長は親しい友人である。
次はそのころの減圧表について取り上げる。
1960年当時、減圧症はすでによく知られていたが、その治療は「ふかし」と呼ばれる方法で行っていた釜に入れて蒸す(ふかす)からふかしなのだろうとおもう。釜すなわち再圧タンクなのだろうともおもっていた。しかし、ならばその釜も普及していなければならないはずだ。それがちがう。となれば、蒸かす釜は、ヘルメットなのだろうか。実際にはヘルメットに入れて蒸していた。
房総半島でのヘルメット潜水による漁と言えば、アワビ漁である。ヘルメット式のアワビ漁の中心は外房大原沖にある器械根の漁である。ヘルメット式潜水機、すなわち器械でとるから器械根である。器械根の話に脱線すると大変なので、ここまでとするが、海女が潜れない深さであるからヘルメットを使う。明治11年(1878)頃にはじまった漁であり、ヘルメット式潜水の日本における嚆矢とも言える。この漁でどのような減圧表を使っていたのか、そしてふかしについては、「房総の潜水器漁業史」大場俊雄著・崙書房1993に詳しい。大場さんは東京水産大学で僕の5期先輩でとこれも脱線になってしまう。この本には「ふかし療法の開発」という章があり、房州勝浦の丹所春太郎が工夫し、この方法で多くの潜水漁師を救ったとして、勝浦市川津に銅像がある。川津にはアワビの調査で通ったことがあるのに、この銅像を見に行っていない。
房総のヘルメット式漁師は、「ふかし」で治療をしていた。減圧表についても、明治年代にすでに「三十尋より二十五尋までは三十分、二十五尋から二十尋までは一時間、二十尋から二十尋までは二時間」とか、時間表があった。この時間表に従って潜り、腕の痛みなどが出た場合にはふかしたものだった。それでも深刻な半身不随になる潜水病もあり、テレビのドキュメンタリーで、房州器械根での潜水病の悲劇を見た記憶がある。僕の家でテレビを買ったのは遅く、1964年だったから、それ以後のNHKの番組である。痛みに苦しみながらのふかしに強い印象を受けた。
それでは、再圧タンクは無かったのか?
千葉県の病院にあった。しかし、ヘルメット漁師たちは、あそこに行ったら終わりだと言って、よほど悪くなるまで行かなかった。悪くなってから行くから助からなかったという悪循環である。
たしか、1959年だったと思う。東亜で一人用の最厚タンク、ワンマンチャンバーを作ろうとした。作ろうとしたら特許に引っかかって作れない。クレームがついた。基本的な部分、タンクに圧力をかけて治療するという部分が特許になっているのだという。
特許は、公知公用になっていれば、通らない。異議申し立てができる。特許の申請の前に、申請者とは違う人が作って売り出していれば、通らない。社長がいろいろ調べたところ、昔に作った再圧タンクがスクラップになって横須賀にあるという。僕が調査を命じられ、横須賀までマツダのオート三輪に乗って調べに行った。もしもスクラップがあって買えるならば買ってくる。なんとかスクラップ屋さんまでたどり着いたが、残念、しばらく前に切断しバラバラにして捌いてしまったあとだった。
結局、この件は、梨本先生、旭潜研の佐藤さんらと語り合って、無効の申し立てをして、なんとなくうやむやにした。61年の高気圧作業安全衛生規則では、再圧タンクについて書いてあり、試験にもでるのだ。特許では労働省が困る。
100m潜水の船上 真ん中に再圧タンクが置いてある。
特許は何とかなったが、そんな具合だから東亜には作る技術がない。佐野専務が担当したが、コンプレッサーが専門であり、忙しいのではかどらない。僕はレギュレーターを設計して作り、苦労している最中だから、それに再圧タンクの設計など無理。それで、招聘したのが、帝国海軍で潜水の神様と言われ、伏龍特攻隊のための潜水機を作った清水登元海軍大尉だった。僕は100mの実験潜水を計画し、その総指揮を清水さんにお願いすることになるのだが、その東亜製再圧タンクができたのは、1963年8月、100m潜水に出発するその日、僕は徹夜でタンクに電話機を取付けて、そのままタンクの中で寝てしまって、その朝、館山は100m潜水のためにトラックにそのタンクを乗せて出発した。
再圧タンクの中の舘石さんと電話で話す僕
僕たちのために作ったようなもので、そのタンクに初めて入って圧力をかけられたのは、100mを一緒に潜った舘石さんだった。潜水を終了して、なんか具合が悪いというので、清水さんが、ちょうど良いとタンクに収容して圧力をかけた。元気になって出てきたから、きっと効果があったのだろう。
その再圧タンクは、どこかに売ってしまって、その後東亜で再圧タンクを作った記憶はない。現在、再圧タンク、大型減圧室の製作は、中村鉄工所、羽生田鉄工、現在はパロテックハニュウダ株式会社が分け合っていて、羽生田社長は親しい友人である。
次はそのころの減圧表について取り上げる。