、事故を飛び石のようにたどっているが、自分の体験が、そんなにあるわけのものではない。他の実例になるが、それが、僕の、日本人の感性では書きにくくて停滞している。
そこで、もう一度、第15代のブラックアウトに戻ってみる。振り返って見れば、ただのブラックアウトだが、それ以後、何度も何度も考え、反省というとちょっと違うがどうするべきだったかとか、考えている。
他人のヒヤリハットなどは、なるほど、と思うにとどまる。詳細を書いた報告書ならば、それを読むことで知識の蓄積にはなる。経験にはならないが、
自分の経験ならば、考え続ける。同じような学生の指導をするとき考える、スキンダイビングについて書いたスキンダイビング・セーフティにも、この事件のことを書いた。そして今も書いている。これからも機会があれば書くだろう。
事故、事件の体験をすると言うことは、そういうことなのだ。考え続ける。
修羅場を踏むと言う表現もある。と言って、こんな経験を積むことを奨励するわけにはいかない。だから、安全を口にするならば、自分自身が危なかった時のことも、自分が責任者であった時も、そのチームの一員であったときも、体験したことは書いて、できれば公表しておかなければいけない。二度と同じような事故を起こさない、起こさせないために。
もしも、その自己に関わって、その責任を追及されて、裁判になった際のことも、その時の自分の主張も、その是非、責任の大小にかかわらず、事情が許すならば、公表する方が良い。
この水産大学潜水部15代を境にして、僕は、母校東京水産大学潜水部に直接にかかわることは、無くなった。一切、出入りもしなかった。再び、潜水部とかかわる、付き合い始めるのは第40代からだから、25年間 ブランクがある。
当時の自分の忙しさ、自分が創業した会社の経営状況を考えると、しっかりと面倒を見ることはとても無理だった。責任をおうならば、しっかりと、時間もかけなければいけない。中途半端はできないと思った。
そして、25年間のブランクができる。
一方で、水産大学潜水部は、昭和49年、1974年、18代だと思うので、15代のブラックアウトから、たった3年後だ。ブラックアウト事故を起こす。
「大島にて、水中でのブラックアウトによる事故発生、肺に水が入り、自衛隊のヘリコプターにより、事故者を東京まで空輸」という記述が水産大学潜水部のあゆみ、というガリ版刷りに残っている。記録はそれだけであり、僕はこのガリ版刷りを、30年後、潜水部50周年の時に見せてもらって知った。それが誰だったのか、どういういきさつでそういうことになったのか、何も知らなかった。
一方、ヘリコプター搬送のことは、この立派な記念誌には、掲載されていない。この記念誌のために集めた資料の中にガリ版刷りが入っていてしったのだ。記念誌の編集者は、これは、死亡事故にならなかったから、世にもでなかったが、自衛隊のヘリで搬送ということは、紙一重だったのだろうが、祝、OB会発足だから、載せられなかったのだろう。それはそれで、良い。
ただ、このブラックアウトを起こした代、第15代 第18代は、50周年記念誌にも60周年記念誌にも寄稿がない。トラウマになっているのだろうか。
そして、水産大学潜水部では、ヘリコプター搬送の事故例があるのに、その記憶の継続がない。
マスクウエイトと呼ぶプールで水平潜水をしながら、一息で、マスククリアーを何回か繰り返す練習方法を誰かが考え出して、何度もブラックアウトを起こしていると聞いた。浅いプールだから、直ちに引き揚げて、大事に至っていないが、ブラックアウトが年に一度はある、というような日常化に近くなっていたと、第45代、の井口聡子、今も親しくて、シンポジウムに来てくれているのだが、それを教えてくれた。僕は40代から付き合いは始めたが、練習を直接に見ることはなかったから知らなかったのだ。
そのことを聞いて、すぐにやめさせたが、この間、事故にならなかったのは、幸運という他ない。
もしも、僕が監督というようなものに就任していて、15代の時のように合宿、練習を見ていれば、ヘリコプター搬送もなかっただろうし、「マスク・ウエイト」によるブラックアウトも無かっただろう。
そして、僕は館山実験所の技官であった、益子さんにインストラクターになってもらって、監督、のようなものになってもらった。
名前、呼び名は何でも良いのだが、継続して見ている大人がいないということは、記憶が、記録が連続しない。そして、これは後で詳述するが、2003年から、学連でSAIと呼ぶ安全対策をやった事の体験だが、賽の河原の石積み、せっかく積み上げても、鬼、次の代がやってきて突き崩してしまう。もちろん本人たちは鬼の自覚はないのだが、これが、学連という組織の根本的な欠陥になる。そして、監督という指導者がいる大学といない大学の乖離もある。
少し脱線した。学連については、後で書くつもりだった。
ここで書きたかった事は、書くことに抵抗があっても、事故(ブラックアウトは、立派な事故である)があれば、その記録、それが個人の視点からの感想であっても、書き残しておく責任があり、公表して共有するシステムが必要であるということだ。社会人のレクリエーションダイビングでは、指導団体という仕切りもあり、難しくても、学生のクラブ活動では、それが可能であったはずなのだが。
数日前、ということは、2020年の今日現在から数日前だが、社会スポーツセンターの瀬田さんから、電話があり、7ー8年前に小笠原で、スキンダイビングで魚を突いていた大学生クラブの子が亡くなった。海洋大学だったか、東海大学だと聞いているけれど、その詳細を知らないかということだった。
何か、事故者の母親からの電話が、その7ー8年前にあり、記録していなかったので、詳しいことを知っていれば教えてほしいということだった。
スキンダイビングで魚突きをやっているクラブ?グループが海洋大学にあることは、知らされている。公式の大学承認の活動ではなく、自由にやっているクラブだとか。そのことは、聞いているけれど、事故のことは知らない。こんど潜水部の学生に聞いておくと答えておいた。東海大学のことは、知らない。聞いていない。
同じような事故が起こる可能性があるので心配している。大学生の事故が報道されると、文科省から、社会スポーツセンターに聞いてくるので、詳しい情報を把握しておきたいとの事だった。
ダイビング雑誌などでも、ヒヤリハットのことは気楽に書ける。しかし、死亡事故の詳細は、かかわった人たちを傷つけることになろうと書けない。当事者が発表、公表しているものがあれば、その引用はできる。